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王子は黒馬に乗って Ⅰ
「・・・あれ、一禾さんどっか行くん?」
「ううん、フランス、行きたいなぁって」
「へー・・・」
談話室に広げられていた旅行のパンフレットを摘まんで、一禾はそう言って笑った。夏休みというやつで、紅夜も京義も学校は終わっていたが、夏期講習のために学校に行く毎日だったので、終わったとは肌で感じられない。しかし、大学生である一禾と染は完全に学校が無いらしく、お気楽だった。
「フランスかぁ、高そうやなぁ・・・」
「まぁ、俺には魔法の呪文があるから、行けないことも無いんだけど」
「魔法の呪文?」
フランスの偽物臭い青い色と緑の大地、それでもそれを美しいと思ってしまう。紅夜はパンフレットから目を離して、一禾を見やると、一禾は片目を瞑って見せた。嫌な予感がする。一禾がこういう風にふざけるのは、余り良くない話のときだ。
「ねぇ、桜子さん。俺フランスに行ってみたいなぁ・・・っていう」
「・・・やっぱりそうか・・・」
「まぁ、でも、染ちゃん居るから実質は無理だよね、行きたいけど」
「・・・何でフランスなん?」
「ん?」
「他にも一杯あるやん。フランスがええの?」
「ほらぁ、俺にはフランスが似合うじゃん!」
「・・・」
「あの何だか穢れない感じ?俺みたいだよね」
「・・・あほらし、勉強しよ」
「あ、ちょっと、紅夜くん!」
呆れて談話室を出て行ってしまった紅夜を追いかける振りをして、一禾は立ち上がった。その時、ぱさりとテーブルの上からパンフレットが落ちて、一禾は足を止める。本当はどこでも良かったのかもしれないし、そこに固執しているのかもしれない。そんなことは自分らしくないけれど。
「・・・」
確かに、馬鹿らしいことだった。
夏休みになる前に、夏衣はホテルに帰ってきていた。出て行くのが唐突なら、帰ってくるのも唐突だった。いつも通り青白い顔をして、夏衣は仕様の無いことばかり言っている。一禾はそれを毎度嗜め、染は呆れ、京義は無視し、紅夜はもう慣れっこになっていた。
「・・・一禾、フランス行くの?」
「え?」
「ほら、これ」
「・・・あ、直すの忘れてた」
「え、フランス?」
夕食が終わり、一禾はしっかりゴム手袋をはめて、食器を洗って片付けていた。紅夜はお風呂に入っているところで、京義はバイトらしく食事が終わると早々に、ホテルを出て行った。染は談話室に転がって、いつものバラエティー番組を見ていた。
「一禾のでしょ?行くんだ、良いなぁ」
「俺のだけど、違うよ」
「へー・・・」
「何で?何で行かないの?」
「何でって・・・染ちゃん居るし・・・」
「俺?何で?」
「何でって、染ちゃんねぇ。俺が長期でホテル空けたらすぐ機嫌悪くするくせに、そういうこと聞く?」
「・・・べ、べつ、別にそういうんじゃないもん・・・」
「あー、染ちゃん可愛いー」
「染ちゃんが良いんだったら、俺行ってこようかな」
「そ、そんな金無いじゃん!幾らするんだよ、これ」
「大丈夫、俺には魔法の呪文があるから」
「・・・出たー、一禾の必殺技」
「そんな大金・・・出すかよ・・・」
「出すよ、出しちゃうの。俺可愛いから」
「・・・!!」
「だよねー、一禾とだったら俺もいきたーい」
「俺はナツとはゼッタイ御免―」
にこりと笑って手を伸ばした夏衣を一刀両断、その顔はやはり微笑んでいる。染はパンフレットを持ったまま、何も言えずにそこに立ち竦んでいた。持つ手が震える。時差は幾つぐらいだろう。
「染ちゃん、そんな深刻な顔しなくても一禾は行かないって言ってるじゃん」
「・・・べ、別に・・・」
「ねー、一禾」
「うん、いつかは行ってみたいけど、今はまだ良いよ。染ちゃんもアレだしね」
「・・・アレって何・・・」
「ほっとしてるー、染ちゃんほっとした顔―」
「う、煩ェな・・・」
「だよねー、染ちゃん泣いちゃうもんねー」
「泣いて、ないし!」
「よく言うよ、部屋も荒らすし、全く困った子だよ」
「わ、・・・アレは、だから・・・!」
「素直に居て欲しいって言えば良いのにさ」
「・・・別に、一禾なんか、一禾なんか、良いし!」
「・・・あ」
夏衣の腕を振り払って、染はフランスのパンフレットを握ったまま、談話室から出て行ってしまった。夏衣はそれを特別追いかけることも無く、椅子に座ったままただ落胆の声を上げた。テレビはついたまま、染の好きなバラエティー番組が続いている。
「・・・からかいすぎちゃった、御免、一禾、謝っといて」
「良いけど。染ちゃん相手に変なこと言わないでよ」
「言ってないじゃーん。ホントのことだしぃ」
「しぃじゃないよ、全く」
夏衣は笑って、立ち上がった。一禾は食器を全部食器洗浄機に入れると、扉を閉めた。夏衣がテレビのスイッチを消すと、談話室は一気に静かになる。そのまま、夏衣は扉に手をかけた。
「ナツ」
「なに?」
「待って、話がある」
夏衣が振り返ったそこで、一禾がパンフレットを握って震えていた染以上に深刻そうな顔をしていた。
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