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王子は黒馬に乗って Ⅲ

タクシーから降りて、一禾はその聳え立つ銀色の建物を見上げた。東京には同じようなビルが幾つもある。どうしてこうも個性のない、人工らしい形をしているのだろう。直線がそれを物語っているようだった。一禾はひとつ溜め息を吐くと、ベルボーイに頭を少し下げて、音もなく開く自動扉を潜った。 ロビーは広々として、制服のベルボーイたちが忙しなく、しかしどこか礼儀正しい動作で動き回っている。床は白い石のような質感で、黄色と赤の絨毯がそれに埋め込まれている。聞いたことのあるホテルの名前だったから、やはり着替えてきて良かった。少しだけほっとして、一禾はガラスに映る自分の姿をそこで暫く眺めていた。玲子がくれたブランドのスーツだった。金のない大学生には流石に見えないだろう。ホテルは休みのせいか人が多く賑やかで、流行っているようだった。 奥に設置された金色の装飾を施されているエレベーターに乗って、14階へのボタンを押した。エレベーターは一度も呼び出しにあわないまま、14階で思い出したように扉が開き、一禾をそこに下ろした。客室ばかりが並ぶそこはロビーに比べると流石にしんと静まり返っていたが、扉の奥にそんな衝立一枚では隠しきれない人の気配らしきものを俄かに感じる。指定された金色の部屋番号を確認し、一禾はもう一度スーツの襟を正すと扉の側にあるインターフォンを押した。 「どうぞ」 扉を開く。見たところ普通の客室だった。その奥の椅子に男がひとり、手持ち無沙汰に座っていた。目が合うのに一禾は頭を少し下げて、それとほとんど同時に男は立ち上がった。女の子からだと思ったその電話を取って、男の野太い声がしたから、その時一禾はぎょっとしてしまった。その声の主に違いなかった。身なりのきっちりした、神経質そうな男だった。 「今日はどうも、すいません」 「いいえ」 「どうぞ、座ってください」 「・・・失礼します」 男が言うので一禾はそれに逆らうことなく、男の正面に当たる椅子を引いてそこに浅く座った。一体何の用件だろうなんて、聞く前から分かっている。だからこそ余り気は進まなかった。男の前で子どもっぽく振舞ったら良いのか、大人で居るべきなのか、一禾には良く分からない。酒でも出れば良いのにと思うテーブルの上は、虚しく乾いている。男は一禾を目の前にして思い詰めた様子で暫く黙っていて、一禾はそれを出来るだけ気にしないように窓の外に見える夜景をぼんやりと見ていた。 「・・・あの、」 「はい」 「君はその、うちの娘と付き合っているそうなんだが・・・」 「・・・」 「もしかしたら知っているかもしれないが、うちの娘はその、来月には結婚するんだ」 「・・・おめでとう御座います」 「・・・有難う」 夜景が揺らぐ。一禾はにこりと笑ってそう言った。それ以上の言葉は、ここでは相応しくないようだった。一禾はそれを知っていたから、何の感情も篭ってはいないそれで、そう呟くように言った。付き合っているとは少し違うということも、父親の手前訂正するわけにはいかないことも分かっている。それよりも早く帰りたかったし、早く眠りたかった。毒を吐きたがる唇を、一禾はきゅっと結んで奥で揺らいでいる夜景を眺める。 「それで、その、君には悪いが」 「・・・はい」 「こういうことは当人同士で話し合ってもらおうと思ったんだが、結婚が随分急に決まってしまって」 「・・・」 「あの子の気持ちの整理の付かないまま、君に会うのはどうかと思って」 「・・・はい」 「・・・今日は本当に、来てくれて有難う」 「いいえ」 こんな服など着てこなければ良かった。一禾は不意に思った。寂しい気持ちになる。寂しい気持ちになってしまう。何も言うことはなかった。何も言う必要など無かったから。ただ早く帰って、染の顔が見たかった。一禾は乾いた唇を舐めて湿らせて、次の言葉を待っていた。 「これで、娘と別れてくれ」 「・・・ーーー」 酒の匂いのない乾いたテーブルに、すっと封筒が置かれて、一禾はまるでドラマだなと思った。一禾はそれを手にとって、中身を躊躇なく引っ張り出すと、ぱらぱらと捲ってみた。全て新札、その特有の匂いがしている。ちらりと目の前の男を見ると、男は顔を臥せっている。一禾は黙ったままそれを封筒に戻した。 「・・・分かりました」 「・・・すまない」 「良いですよ、顔を上げてください」 「・・・」 「彼女が納得しているのなら、俺は何も言いません」 「・・・」 「これ、本当は貰えませんって言うべきなのかもしれませんけど、折角なので頂いておきます」 「いや、そんなものですまない」 「いいえ、それでは失礼させて貰います」 椅子を引いて立ち上がると、一禾は男に向かって少し笑んで見せた。先刻潜った扉をもう一度潜って、一禾はその少し重たい扉を閉めた。あぁ、本当に。一禾は靴の爪先を見つめた。本当に寂しい気持ちになる。ずるずると壁伝いに床に沈んで、一禾は暫くそこでぼんやりとしていた。こんなところに呼び出して、言うことはそれで、渡すものはこれだ。あぁ、本当に嫌になる。 「・・・はぁ」 一禾は立ち上がって、細長い廊下を歩いた。歩いても音がしない。絨毯に吸い込まれていってしまうからだ。エレベーターのボタンを押して、一禾はその光る印を見ていた。帰りたくないような、帰りたいような不思議な気持ちだった。どっちにしろ、何だか色々面倒臭い。一禾は携帯を取り出して、玲子に電話をかけた。 『はい?』 「もしもし、俺」 『一禾、どうしたの?』 「御免、今良い?」 『良いわよ、なぁに』 「今マティナルホテルなんだけど、来てくれる?」 『どうしたの、一禾』 「会いたいんだ、駄目かな?」 『・・・弱ってる?』 「・・・弱ってる」 『良いわよ、行ってあげる』 「有難う」 そうだ、今日は強い酒でも飲んで、こんな面倒なことは忘れよう。開いたエレベーターの密室には誰も乗っていない。一禾はそれに乗って、一階のボタンを押して、ゆっくり閉まる金属を見ていた。眠れなければ起きていれば良かった。帰るのは明日でも構わなかった。

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