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王子は黒馬に乗って Ⅳ

大理石の階段は端を残して赤い絨毯が埋め込まれていて、やはり音はしなかった。 「一禾!」 「・・・?」 不意にそう呼ぶ声がして、一禾が振り返るとそこにはさっきまで一禾の目の前に座っていた男の娘、美奈子が立っていた。一禾がどうしてここに居るのだろうと考えている間に、彼女は血相を変えて階段の上から降りてきた。一禾はそんなことは抜きにして、取り敢えず顔を緩めた。 「結婚おめでとう、美奈子さん」 「・・・一禾、本気で言ってるの?」 「どうして?俺はいつだって美奈子さんの幸せを願っているよ」 「お父さんに何を聞いたの」 「貴方が結婚するって、来月?相手は良い人?幸せになってね」 「・・・一禾、一緒に来て!お父さんはまだ上にいるんでしょ」 「俺はさっき話を済ませたから良いよ」 「済ませたって何、勝手なことしないでよ」 「大丈夫だよ、結婚式ぶち壊したりしないからさ」 「違うわ!・・・どうして分からないの」 「・・・何が」 少々のことでは皺にならない一禾の服を掴んで、彼女は俯いたまま悲痛に声を震わせた。一禾の顔は始終穏やかで、声に怒気すら感じられなかった。後で考えてみれば、一禾はいつもそうだった。抱きしめたって温度なんて殆どなかった。優しいけれど優しいだけで、それ以上はいつもそこにはなかった。その時だってそうだった。いつもそうだったから、当然といえば当然かもしれなかったけれど。 「私は結婚なんてしたくないの」 「・・・どうして?」 「そりゃ、勝手に決められたとか、色々あるけど、結婚したら一禾・・・」 「・・・」 「会ってくれないでしょ・・・もう」 「・・・結婚してもしなくても、美奈子さんとはもう会えない」 「・・・え?」 「お金貰っちゃったから、もう会えない」 「・・・お金・・・」 「うん、御免ね」 そういう時の一禾の横顔は、優しいけれど本当に、優しいだけの一禾はとても残酷だった。美奈子は肩を震わせて、一禾はそれをいつもの穏やかな表情のまま見ていた。それを少しも崩すことなく、まるで能面みたいだと思った。何も思わないのだろうか、残酷なその心は。言葉ばかりが、表情ばかりが優しくて、その奥はとても鋭い色をしている。だけどそれが一度でも、こちらを向いたことはなかった。美奈子は一禾のスーツを掴んで、その頬を思いっきり殴った。赤くなった頬、唇の端が少し、切れて血が滲んでいた。 「・・・最低・・・」 「・・・」 「最低・・・アンタなんか、人間のごみだわ・・・」 「・・・言いたいことはそれだけ?」 「・・・っ!」 「さよなら、美奈子さん。幸せになってね」 血の滲んだ顔でもまだ、一禾は優しい言葉を吐いて、するりとその腕を逃れて行った、まるで何事もなかったかのように。そしてそこに呆然と立ち尽くして気付くのだった、一禾にとってははじめから何事もなかったのだと。涙が滲んで、それ以上は見えなかった。一禾はそのまま階段を下りていって、自動扉を潜ってそこに丁度止められてあった黒塗りの車に乗り込んだ。それをただ、美奈子は涙を零しながら見ていることしか出来なかった。 「酷い顔ね」 「・・・でしょ。俺の顔殴るなんて最低だよね」 「そうね」 「あぁー、いったい。血ぃ出てるじゃん、もう」 「ふふ、喧嘩したの?」 「ううん、俺が悪いんだ」 「へぇ」 「お金なんて貰ったりするから」 玲子は隣で上品に声を上げて笑った。一禾は唇の端を触って、指先に付いた血を舐めた。金属の味がする。あんなことで手を上げるなんて馬鹿げている。一禾は窓の外に目をやったままで、口元を少し歪めて笑った。殴られたのははじめてだった。殴られるようなことは沢山していたと思うが、誰も殴りはしなかった。一禾はいつもその対象にはならなかった。そうならないように生きてきた。 「お金?一禾お金に困ってるの?」 「そうなんだよ、俺はしがない大学生だから、貧乏なの」 「そんな風には見えないけど」 「でもくれるって言ってるし、断わるのも悪いよね」 「・・・一禾はいつもそうねぇ」 「だってそうじゃない?」 「何とも言えないけど」 「・・・ーーー」 肘を突いたまま一禾は黙って、そういう玲子の横顔を見ていた。彼女は知っている。彼女だけは知っていると思う。だから何も考えなくていい、彼女の側には居られる。それは心地いいとは違うのかもしれない、安心感がある。だけど一禾はそんなことは口にしない。口にしないのが賢いのを知っているからだ。 「・・・玲子さんの側は落ち着くなー・・・」 「どうしたの、一禾」 「ううん、でもやっぱり、馬鹿は困るよ」 「・・・ふぅん」 「俺のこと殴るかなぁ、フツー」 「帰ったら消毒してあげるわ」 「有難う、玲子さん。やっぱり玲子さんが一番いい」 「・・・如何したの、一禾、欲しいものでもあるの?」 「別に」 赤信号で車は止まった。口は薄っぺらな嘘を吐き続け、一禾はそれを止めない。彼女の帰る場所と自分の帰る場所を、時々混同しそうで迷う。黒いシートに体を深く沈めて、一禾は外のきらきら光る電飾を眺めていた。偽者は偽者らしい光を、懸命に此方まで届けようとしている。まるで自分のようだと一禾は下唇を噛んで思った。玲子の部屋はあのホテルより、綺麗に夜景が見えるはずだ。 「でも強いて言うなら時計が欲しいなぁ」 「へぇ、どんな時計?」 「フランクミュラーの時計」 一禾はつまらなそうな目を玲子に向けて、玲子が微笑むのを待っていた。

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