62 / 302

王子は黒馬に乗って Ⅴ

染の部屋には染らしいものは何も無かった。それよりもまず、何が自分らしいのか、染は自分でだってそれが分からない。散乱した講義のノート、ゼミの資料と参考書。机の上には何処にでもあるようなシャーペンが転がっており、クローゼットを開けると一禾が買ってきた染の服が並んでいる。染は部屋の中で自分が自分である場所は、ベッドの上だと知っている。そこに丸くなって居れば落ち着くし、誰の声も聞こえなく楽だった。 「・・・」 しかし、その日染はどうしたことか、ベッドではなく床に寝そべり、床に右耳を当てて下の様子を伺っていた。掃除だけは毎日欠かさずやっているので、一応に床は綺麗なままである。染はそこに暫くじっと動かない。外は暑いが床は冷房のせいで随分と冷たい。 「・・・変だな」 染はそう呟いて、床から耳を離した。最も可笑しいのは染のほうだったが、こちらにはそれを指摘する人間は、残念ながらいない。染が首を捻っていると、不意に扉が叩かれた。染はびくりと体を震わせ、振り返った。自分を呼ぶ声がして、染は少し安心した。 「染ちゃーん」 「いち・・・―――」 「夏衣だけど」 「・・・何だよ」 「何それ、何そのあからさまな反応。泣いちゃう!」 「・・・何なんだよ、ナツ!俺は今忙しいの」 しかし、染の期待に反してそこから顔を覗かせたのは夏衣で、一禾ではなかった。半分以上一禾の名前を呼んでいるのを聞かれて、染は若干赤くなって、そう叫んだが、夏衣のほうは泣き真似をしながらも、その顔は笑っている。夏衣は染の部屋に入ると扉を閉めた。床に座り込んだまま染はそれを見上げている。 「それは兎も角」 「兎も角って何だよ・・・」 「一禾居ないの?」 「・・・は?」 「可笑しいなぁ、一禾染ちゃんの部屋に行くって言ってたけど・・・」 「・・・何それ、来てないし」 「あれ、じゃあどこ行ったんだろ」 夏衣はそう言うと、染の部屋の扉を開けっ放しにしたまま出て行ってしまった。仕方なく染は夏衣の後を追う。夏衣は隣の一禾の部屋の扉をとんとんと軽く叩いた。ホテルの部屋にはインターフォンが付いているのだが、何故かホテルの住人は滅多にそれを押したりしないのが常だった。夏衣が扉を叩くも、部屋からは全く返事がない。夏衣は首を捻って、一禾の部屋の扉に手をかけた。 「一禾―、開けるよー」 「・・・いちかー・・・?」 扉を開けるも、そこに一禾の姿はない。夏衣は以前のこともあってか部屋には入らずに、扉を閉めた。どうやら居ないのは確定事項のようだった。振り返ると染が後ろで青くなっている。夏衣は染の方を黙ってぽんぽんと叩くと、顔面蒼白の染がさっと顔を上げた。 「・・・はは・・・!」 「な、何笑ってんだよ!ナツ!」 「そんな心配すること無いって、いつものことじゃん」 「・・・う・・・」 「でも可笑しいなぁ、さっきまでは染ちゃんの部屋に行くって言ってたのに」 「・・・」 「一禾にしては突然だよねー・・・」 「・・・ど、どうしよう・・・」 「へ?」 「お、俺が一禾なんて良いしって言ったから・・・出て行っちゃったんだ・・・!」 「いやぁ、多分それはないよ。一禾はそんなにお馬鹿さんじゃないと思うし」 「絶対そうだよ!な、な・・・なんてことを、俺は・・・!」 「・・・染ちゃんはちょっと落ち着いたほうがいいと思うよ」 座り込んで頭を抱えてしまった染の肩を揺すって、夏衣は半分笑いながら慰めた。染はいつだって、有ること無いこと、いや、その殆どが無いことについて、日々頭を悩ませているのだが、それが真剣だから、真剣に悩んでいる染に、こちらも余り笑ってはやれないのである。 「もー・・・ふたりとも煩いで・・・」 「あ、紅夜くん」 「紅夜ぁ!一禾がぁ!」 「あー、もう、何時やと思ってんねん!勉強もでけへんわ」 「御免ね、騒ぎ過ぎちゃったみたいだ」 「それより、紅夜!大変なんだよ!」 「もう夜中やで、夜中!ええ加減にして」 「御免ね、ホラ染ちゃんも謝りなよ」 「ああっと・・・うー・・・御免・・・」 「もうふたりとも早く寝たほうがええで。遅いねんから」 「うん、分かった。おやすみ」 「・・・ちょ、ちょっと紅夜!」 紅夜は目を擦りながら、手を振ってそう言った。言いながら本人はまだ眠らないで、勉強をするつもりなのだろう。紅夜が遅くまで起きているのはいつものことだったが、紅夜は目覚めが物凄く良いらしいので、京義のようにはならないのが常だった。紅夜が背を向けた瞬間、染は今までのことを思い出して、思わず呼び止めてしまった。 「なに?」 「一禾!一禾居なくなったんだよ」 「そうなんだ、何か部屋にも居ないみたいで」 「あぁ、一禾さんやったら出かけたで」 「出かけた!」 「へぇ、こんな遅くにどこ行ったんだろ」 「・・・出かけた・・・家出・・・?」 「何か呼び出しって言ってたし・・・女の子ちゃうの」 「へー・・・大変だな、一禾」 「・・・いえで・・・」 「何や、皆には言ってへんかったん?」 「うん。でもそれなら大丈夫そうだね、俺も寝よっと」 「おやすみ、染さん」 「おやすみぃ、染ちゃん」 「・・・いえで・・・」 誰も居なくなってしまった廊下で、染はひとりでそう呟いて頭を抱えていた。

ともだちにシェアしよう!