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王子は黒馬に乗って Ⅴ
染の部屋には染らしいものは何も無かった。それよりもまず、何が自分らしいのか、染は自分でだってそれが分からない。散乱した講義のノート、ゼミの資料と参考書。机の上には何処にでもあるようなシャーペンが転がっており、クローゼットを開けると一禾が買ってきた染の服が並んでいる。染は部屋の中で自分が自分である場所は、ベッドの上だと知っている。そこに丸くなって居れば落ち着くし、誰の声も聞こえなく楽だった。
「・・・」
しかし、その日染はどうしたことか、ベッドではなく床に寝そべり、床に右耳を当てて下の様子を伺っていた。掃除だけは毎日欠かさずやっているので、一応に床は綺麗なままである。染はそこに暫くじっと動かない。外は暑いが床は冷房のせいで随分と冷たい。
「・・・変だな」
染はそう呟いて、床から耳を離した。最も可笑しいのは染のほうだったが、こちらにはそれを指摘する人間は、残念ながらいない。染が首を捻っていると、不意に扉が叩かれた。染はびくりと体を震わせ、振り返った。自分を呼ぶ声がして、染は少し安心した。
「染ちゃーん」
「いち・・・―――」
「夏衣だけど」
「・・・何だよ」
「何それ、何そのあからさまな反応。泣いちゃう!」
「・・・何なんだよ、ナツ!俺は今忙しいの」
しかし、染の期待に反してそこから顔を覗かせたのは夏衣で、一禾ではなかった。半分以上一禾の名前を呼んでいるのを聞かれて、染は若干赤くなって、そう叫んだが、夏衣のほうは泣き真似をしながらも、その顔は笑っている。夏衣は染の部屋に入ると扉を閉めた。床に座り込んだまま染はそれを見上げている。
「それは兎も角」
「兎も角って何だよ・・・」
「一禾居ないの?」
「・・・は?」
「可笑しいなぁ、一禾染ちゃんの部屋に行くって言ってたけど・・・」
「・・・何それ、来てないし」
「あれ、じゃあどこ行ったんだろ」
夏衣はそう言うと、染の部屋の扉を開けっ放しにしたまま出て行ってしまった。仕方なく染は夏衣の後を追う。夏衣は隣の一禾の部屋の扉をとんとんと軽く叩いた。ホテルの部屋にはインターフォンが付いているのだが、何故かホテルの住人は滅多にそれを押したりしないのが常だった。夏衣が扉を叩くも、部屋からは全く返事がない。夏衣は首を捻って、一禾の部屋の扉に手をかけた。
「一禾―、開けるよー」
「・・・いちかー・・・?」
扉を開けるも、そこに一禾の姿はない。夏衣は以前のこともあってか部屋には入らずに、扉を閉めた。どうやら居ないのは確定事項のようだった。振り返ると染が後ろで青くなっている。夏衣は染の方を黙ってぽんぽんと叩くと、顔面蒼白の染がさっと顔を上げた。
「・・・はは・・・!」
「な、何笑ってんだよ!ナツ!」
「そんな心配すること無いって、いつものことじゃん」
「・・・う・・・」
「でも可笑しいなぁ、さっきまでは染ちゃんの部屋に行くって言ってたのに」
「・・・」
「一禾にしては突然だよねー・・・」
「・・・ど、どうしよう・・・」
「へ?」
「お、俺が一禾なんて良いしって言ったから・・・出て行っちゃったんだ・・・!」
「いやぁ、多分それはないよ。一禾はそんなにお馬鹿さんじゃないと思うし」
「絶対そうだよ!な、な・・・なんてことを、俺は・・・!」
「・・・染ちゃんはちょっと落ち着いたほうがいいと思うよ」
座り込んで頭を抱えてしまった染の肩を揺すって、夏衣は半分笑いながら慰めた。染はいつだって、有ること無いこと、いや、その殆どが無いことについて、日々頭を悩ませているのだが、それが真剣だから、真剣に悩んでいる染に、こちらも余り笑ってはやれないのである。
「もー・・・ふたりとも煩いで・・・」
「あ、紅夜くん」
「紅夜ぁ!一禾がぁ!」
「あー、もう、何時やと思ってんねん!勉強もでけへんわ」
「御免ね、騒ぎ過ぎちゃったみたいだ」
「それより、紅夜!大変なんだよ!」
「もう夜中やで、夜中!ええ加減にして」
「御免ね、ホラ染ちゃんも謝りなよ」
「ああっと・・・うー・・・御免・・・」
「もうふたりとも早く寝たほうがええで。遅いねんから」
「うん、分かった。おやすみ」
「・・・ちょ、ちょっと紅夜!」
紅夜は目を擦りながら、手を振ってそう言った。言いながら本人はまだ眠らないで、勉強をするつもりなのだろう。紅夜が遅くまで起きているのはいつものことだったが、紅夜は目覚めが物凄く良いらしいので、京義のようにはならないのが常だった。紅夜が背を向けた瞬間、染は今までのことを思い出して、思わず呼び止めてしまった。
「なに?」
「一禾!一禾居なくなったんだよ」
「そうなんだ、何か部屋にも居ないみたいで」
「あぁ、一禾さんやったら出かけたで」
「出かけた!」
「へぇ、こんな遅くにどこ行ったんだろ」
「・・・出かけた・・・家出・・・?」
「何か呼び出しって言ってたし・・・女の子ちゃうの」
「へー・・・大変だな、一禾」
「・・・いえで・・・」
「何や、皆には言ってへんかったん?」
「うん。でもそれなら大丈夫そうだね、俺も寝よっと」
「おやすみ、染さん」
「おやすみぃ、染ちゃん」
「・・・いえで・・・」
誰も居なくなってしまった廊下で、染はひとりでそう呟いて頭を抱えていた。
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