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王子は黒馬に乗って Ⅵ

翌日、夏衣が談話室に顔を出すと、昨日切り忘れたのか、電気がついていた。夏衣は可笑しいと思いながらも、扉を押して中に入ると、キッチンにひとり、誰かが立っているのが見えた。 「・・・いちか・・・」 「あ、ナツ。おはよー、早いね」 「・・・あれ、昨日出かけたんじゃなかったけ?」 「うん、今さっき帰ってきた」 「今さっき?」 「それでね、お弁当作ったんだけど、紅夜くんと京義は今日も学校あるのかなぁ?」 「・・・」 夏衣はダイニングテーブルに座って、いつものようにエプロンを着け、キッチンを動き回る一禾を訝しそうに見ていた。一禾は一度女の子絡みで出かけると、暫くは帰ってこないのが常だった。夏衣も一禾が出て行ったと聞いた時、また暫く帰らないのだろうと思っていたから、少し驚いていた。 「どうしたの、一禾、何かあった?」 「ううん、別に。今回は急なことで、帰ってこようと思ってたよ」 「・・・ふーん・・・」 「ねー、それより学校あるかどうか知らないの?」 「知らないよ。紅夜くんに聞いてよ」 「保護者でしょ、ナツ」 「人をそんなに年寄りみたいに言わないでよー・・・」 「どうしよ、作っちゃったよ」 「・・・あれ、一禾」 「なに?」 「・・・如何したの、それ」 「・・・」 夏衣が不意に指を指して、一禾はそれに苦笑いをして少し黙った。夏衣が指摘したのは、一禾の唇の端だった。そこには今白いテープが張られており、余計に目立っていた。如何したのかなんて本当は分かるだろうけれど、夏衣がその時そう言ったのは、一禾を困らせる為ではなく、ただ単純にそう思っただけだった。だから一禾が少し笑ったのを見て、夏衣はああそう、とそれ以上興味を示すことは無かった。 「世の中には悪い奴が多いね」 「でしょ、俺の顔殴るなんて最低だよね」 「うん、一禾もひとりで出歩いたりしないでよ」 「うん?」 「可愛い一禾がどこで誰に何されているのか、俺は心配だよ」 「・・・要らない心配だよ、朝っぱらから何言ってるんだよ、これだから年寄りは」 「5つ上なだけじゃん!」 「5つも上なんだよ?」 「言い方!」 「そっちだって言い方の癖に」 「あれ、一禾さんや」 夏衣がむくれていると、談話室に比較的起きるのが早い紅夜が、制服を着て降りてきた。紅夜も暫くここに居るので、一禾のペースを分かっていた。良いこととも悪いこととも自分では納得出来なくて、一禾にそのことを話したことはなかったが。 「あ、紅夜くん。おはよ」 「おはよ・・・って、一禾さん帰ってきてたん?」 「うん。良かった、今日学校あるんだね」 「うん、夏期講習やて。全然夏休みとちゃうわ」 「良かった。お弁当作っといたからね」 「あ、ホンマに?有難うー」 紅夜は談話室に来る前に玄関まで寄って、取ってきたダイレクトメールと新聞を夏衣に渡した。これは紅夜の日課で、仕事の一環でもある。新しい新聞を読むのはいつも染で、夏衣は皆が学校に行ってから読むことにしている。ダイレクトメールを一通りチェックすると、夏衣はそれを束にしてテーブルの端に寄せた。 「そういや、昨日染ちゃん慌ててたよ」 「へ?」 「あ、そうや。何か騒いでたなー、夜中」 「うん、うん。一禾が居なくなったーって」 「ホントに?あぁー・・・急いでたからなー・・・御免ね、迷惑かけちゃったみたいで」 「別にええんやけど」 「そうそう、迷惑かけたのは染ちゃんだし」 「ナツさんも煩かったで」 「な、何てこと言うんだよ、この子は!」 その時談話室の扉が開いて、青白い顔をした染が降りてきた。きっと一睡も出来なかったのだろう。目の下には黒くクマが出来てしまっている。挨拶をしようとした紅夜が、それを見つけて、思わず言葉を飲み込んでしまったほどだった。染を覆っているオーラは完全に負のものだった。 「・・・お、おはよう、染ちゃん」 「・・・」 「・・・おはよう、染さん」 「・・・」 反応は無い。夏衣と紅夜はそれぞれ目を見合わせてから、キッチンに立っている一禾のほうを見やった。一禾はというとそれを奥から見て、溜め息を吐いている。やはり、昨日染は強がって見せてあんなことを言っていたけれど、一禾が居なくなった程度でこんな風に萎れているようでは、まだまだ染は人間として一個人として成り立っていない。一禾はキッチンを出てくると、染の肩をぽんぽんと叩いた。 「染ちゃん、どうしたの」 「・・・あ、あれ・・・一禾・・・?」 「そうだよ、どうしたの。朝から暗い顔しちゃってさ」 「・・・いちか・・・!ご、御免、俺が悪かった・・・」 「うん、いいよ。許してあげる」 「・・・一禾・・・!」 ぱあっと一気に染は顔を輝かせ、ぎゅうと一禾に抱きついた。やはりそういう顔をしている染の完成された美しさというものは圧巻であった。こういうことに慣れてしまっている一禾は、特に動じることもなく、仕様のない染の頭をぽんぽんと撫でていた。 「・・・全く、染ちゃんには甘いよね、一禾」 「・・・いや、アレは甘いんか・・・?」 「甘いよ!俺にはハグもしてくれないのに!」 「・・・普通はせんやろ・・・」 「ずるい、染ちゃんばっかり!俺も混ぜてよ!」 「煩い、ナツは黙ってて!」 「あ、京義起こしてこなあかんわー」 こうしていつもの調子で、朝は回り始めるのだった。

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