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王子は黒馬に乗って Ⅶ
それから暫く経った、ある晴れた休日だった。もうふたりの夏期講習は終わって、ホテルの中は若干のんびりとした空気が漂っていた。しかし、紅夜は朝から学校の近くの図書館に行き勉強をして、昼頃になると戻ってくる生活をしていた。京義も暇さえあれば学校まで行って、第4音楽室でピアノを弾いて過ごしていた。一禾は料理の本を大量に買い込み、今日も新作をキッチンで考えている。夏衣は相変わらず何をしているわけでもなく、ふらふらと過ごし、学校のない染は完全に引きこもって、ホテルから出ようとしなかった。
その日、ホテルの滅多に鳴らない玄関のインターフォンが鳴り、談話室で本を読んでいた夏衣が立ち上がった。此処を訪れる人は殆ど居ない。夏衣が玄関まで行くと、そこには見慣れたトラックが止まっていた。青年がひとり、帽子を取って夏衣に挨拶した。
「いつも有難う御座います、宅急便です!」
「・・・あぁ、宅急便・・・」
「サインお願いします」
「はーい」
宛名をちらりと見ると「上月一禾」となっている。夏衣は迷わず「上月」とサインをすると、箱を青年から受け取った。青年はまた元気に挨拶をすると、トラックに乗って行ってしまった。箱はそんなに大きいものではなく、宛名の字は達筆だった。夏衣はそれを持って談話室に戻った。一禾はそこで染と一緒にテレビを見ている。
「誰だったのー?」
「うん、何か、宅急便」
「へー・・・」
「一禾にだって」
「え、俺?」
「なに、なに」
特別中身に興味のなかった夏衣は箱を一禾に渡し、一禾は宛名を少し撫でた。差出人の欄には「桜庭玲子」と書かれている。玲子から一体何だろう。箱を振ってみると、がたがたと妙な音がした。夏衣は何事もなかったかのように同じところにおさまって、テーブルに置いてあった読みかけの小説を少し前から読み返し始めた。
「・・・なんだろ」
「開けてみようぜ」
「・・・うん、いいけど」
自棄に染は箱の中身に興味津々である。一禾は箱に封をしているテープを端から剥がした。中にはまた箱が入っていた。今度はダンボールではなく、白くつるんとした表面の高級そうな箱である。一禾がそれを開けると、また箱が入っていた。黒くて何だかこの感触は知っている。指輪なんかを入れるあのケースだ。しかし、指輪にしては大きいし、中身は一体何だろう、一禾は考えを巡らすが、分からない。
「・・・?」
「時計だ・・・」
「へー、時計」
ぱかっとそれを開くと、そこには時計が銀色に光っていた。一禾の持っているのを、染は取り上げてひとりで勝手に喜んでいる。特に一禾は煌びやかな光を放つそれに興味がなかったので、それを嗜めることもなく、空になった箱を引っ張って中を覗いた。時計だけで、手紙なんかは全く見当たらない。一体何のつもりだろう。あの玲子のことである。ただ渡すならこんなやり方は選ばない。
「すっげ、これフランク・ミュラーじゃん!」
「・・・フランク・ミュラー?」
「へー・・・一禾何?誕生日なの?」
「いや、別に」
「すっげ、すっげー。カッコいい!」
「ふーん」
「・・・染ちゃんそんなにはしゃいで・・・みっともないよ」
「な、一禾!一回だけはめてもいい?」
「いいよ」
そう言えば、あの日、玲子は笑って覚えておくわと言った。お互いに冗談だった。あんな風に露骨に、一禾は物を頼んだりしない。玲子はそれを覚えていて、一禾はそれを忘れていたのだ。会いに来いというメッセージなのか何なのか、一禾にはどうも分からなかった。
「すっげー、かっけー」
「・・・染ちゃん・・・」
「見て、見て。ナツ、どう?似合う?」
「染ちゃんには何でも似合うよ、可愛い」
「カッコいい、だろ?すげー、いいなー」
「・・・」
「一禾、ほら、一禾も見てみろよー。すげーぜ、これ!」
「・・・うん、ホント」
「何だよー、一禾もナツも反応微妙―・・・」
「そんなこと無いよ、カッコいいね」
「そうだね、俺も欲しいよ、染ちゃんが。あは」
「コラ、ナツ」
「冗談でーす」
絶対反省していない声で夏衣はへらへら笑って、また小説に目を戻した。誰にも言わなかったが、夏衣はそんなものは見慣れていた。だからそんなにリアクションして見せるほどのものではなかったのだ。一禾はというと、染の言うようなことは良く分からない、それに値段以上の価値を見出せないのだった。あんまり自分はそういうものには頓着がないのだろうと思う。でもあげると向こうが言うなら頂くし、それなら高いもののほうがいいと思う。ただそれだけのことだ。
「染ちゃん」
「あ、御免、返すって」
「いいよ」
「へ?」
「あげる」
「・・・え、え・・・?」
「えー、良いの?だって高そうだよ、それ」
「良いよ。俺他にも持ってるし」
「い、いいの?マジで?うわ、すげー・・・」
「それに染ちゃんのほうが似合うし」
「そ、そんなこと無いって」
「そう?有難う」
「一禾は太っ腹だねー・・・」
「有難う、一禾。すげー嬉しい」
「うん、良かった」
きらきらと染の手首で、それは高級な光を放っている。一禾はその時、何も知らずにそれを眺めて幸せな気持ちだった。染が喜べば嬉しいし、もっと色んなことをしてあげたいと思う。この気持ちは何だろうか。その時嬉しそうに時計を眺める染の姿のほうが、高級な何かよりももっと、もっと一禾には大切なものだった。
それはこの世にひとつの輝きだ。
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