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無抵抗の殻
扉を閉めて、下唇を少し噛んだ。何も言わないというのは、何もありませんということだ。少なくともここでは。誰もそんなに優しくはない。一禾でさえどうしたのかとは聞いてくれない。京義は少し開けた窓から、真っ青に広がる夏の空を眺めた。羽を伸ばしてここから逃げてしまいたいけれど、それが叶わないことだって分かっている。大体、それが自分の意思なのかどうか良く分からない。
「京義」
不意に自分を呼ぶ声がして、京義はベッドから起き上がった。扉は開かれることは無い。そうして京義もそれに返事をする義務など持っていないのだ。とんとん、と二回扉が叩かれて、後はそこには誰の気配も残らない。真っ青なその色は、東京の空ではないようで、悲しい色のような気もする。京義はそれを見ながら、覚えたての曲の譜面を引っ張り出し、それを眺めながらもう一度ベッドに転がった。
夜、京義が談話室に降りていくと、他の4人はきっちりそこに集まっていた。京義はソファに目を向けたが、そこには染が既に座っていた。染に何か言うのも嫌だったので、京義は椅子を引っ張り固いそこに腰を降ろした。ソファがもうひとつ欲しい。染が座らない奴がいい、京義は考えて無意識に胸ポケットを上から押さえていた。そこに読み取られる箱の形は無く、大体今日の服には胸ポケットなど付いていなかった。
「染ちゃん、紅夜くん。テレビ消して、ご飯にするよ」
「はーい」
「えぇー・・・一禾、ちょっと早いって・・・」
「我侭言わない、ナツ醤油取って」
「はーい」
「えぇー・・・」
「これソースだし」
「あれ」
紅夜が何とも無く、いつものように京義の隣の椅子を引く。騒がしい音は全部ノイズだ。京義の目の前には色とりどりの夕食、もう何と名前の付けていいのか分からない一禾の創作料理が並ぶ。でも味だけはいつも確かである。染も一禾もいつもの場所について、いただきますと誰かが言う。
「・・・あれ、京義珍しいやん」
「・・・なにが」
「この時間帯に起きてるなんて」
「・・・別に、昼間寝たし」
「あぁ、そうなんや」
紅夜はいつも騒がしい。落ち着きが無いとは違うのだが、それは京義には良く分からない。へらへらとひとりでよく笑い、よく喋る。そうして大概、その内容はどうでも良いことだった。だけど、それを煩わしいと思っている自分は、紅夜のそれに良く付き合っている。何故だかは知らない。気が付いたらこうだっただけだ。
「あんな、夏季講習の宿題出たやん?」
「・・・あぁ」
「あれもうやった?」
「・・・やった」
「俺もな、やってんけど数学で一箇所分からんとこあんねんなー・・・」
「・・・」
「京義全部分かった?なぁちょっと教えてくれへん?」
「・・・他の奴に聞けば」
「だって嵐やってへんねんもん」
「・・・」
「絶対やってへんわ、勉強嫌いやもん」
「・・・」
「なぁ、せやからさー・・・京義お願い、頼むわ!」
でも何故だろう。そんなものに時間を割いて、そこに生まれるメリットは一体何だろう。一禾の作ったご飯は今日もなんとも言えずに、ただ美味であるというだけだ。人間付き合いをメリットデメリットで考え出したらもう終わりだろうか。だとすればどの辺りから終わっているのか、是非教えて欲しいところだ。
「今日は無理」
「・・・えぇー・・・何やー・・・」
「・・・でも明日なら」
「あ、ホンマ?出すのまだやんな・・・じゃぁそれで、明日!」
「・・・」
「有難う、京義!助かったわ、ホンマ!」
あぁ、と答えた声が掠れて、それ以上は言葉にならない感情。昔の自分はこんなことを、こんな面倒臭いことを一々考えるのは嫌いだった。今も好きではないが、何となく考えてしまう。テーブルの向こうで微笑んで何も言わずにただこちらを見ている夏衣と目が合って、京義はそれを睨み返した。
知っている、こちらに拒否権が無いことくらい。
「別に良かったのに」
「・・・」
「そういうとこ何か、変に律儀だよね。京義は」
「貸しなんか作りたくない」
「あぁ、そう。まぁ、素直じゃないところが可愛いって言うか」
「・・・煙草が切れた」
「良くないよ、吸うの止めたら」
「お前に言われたくない」
「未成年のうちから吸ってると早くに死ぬんだって、止めたほうが良いよ」
「・・・お前に言われたくない」
「俺は成人してからだもん。それにそんなに吸わないし」
白い湯気が立ち上るカップの中には、コーヒーが入っているが安っぽい匂いがこの部屋には立ち込めていて、それを飲む気にはなれなかった。だけど夏衣はこれが好きで、こればかり飲んでいる。撫でるように名前を呼んで、首を傾げて酔っているように微笑む。
「今日、止めとこうか」
「・・・は?」
「何か京義話してよ、学校のこととかさ。友達のことでも良いし」
「・・・友達なんていねぇし」
「あはは、御免。何だ、そうなの」
「・・・なぁ」
「まぁ、良いんじゃないの。たまにはさ、何か話して」
おかしいと言っても夏衣は取り合ってくれない。安いコーヒーを飲んで、眠そうに時折瞬きを繰り返す。京義はそんなことを言われても途方に暮れるだけだった。話すことは余り得意なほうではないし、何か、なんて漠然としていて掴み所の無いようなことを言われても、困るのはこちらのほうだ。
「・・・変だよ、お前」
その目にはいつも無抵抗だ。
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