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僕とエミリー Ⅴ

「夏衣!てめ、聞いてねぇぞ!」 「んー・・・?どうしたの、賢司くん。お風呂熱かった?」 「違う!何だあの生き物!人形か!」 「え、なに?」 「あの、あの黒いやつ!」 「・・・賢司くんは色からしか人を認識しようとしないよね」 「夏衣!」 「・・・乾かさないと、濡れてるよー・・・」 ピンクの忌々しい服を脱いで風呂に入った賢司は、流石に着替えは持っていなかったらしく、夏衣の黒いジャージに身を包み、若干小柄ではあるものの、こうして見ると確かに一人の男に見える。夏衣は、喚く賢司の頭を肩にかかっているタオルで、濡れたままの賢司の頭をごしごしと拭いた。賢司はそれを嫌がって暴れ、夏衣の胸をばしばし叩いて、何事か文句をつける。 「なに、染ちゃんのこと?」 「あ?そんな名前だったか?」 「・・・染ちゃんは引きこもり気味の大学生だよ。ただの」 「畜生!この世に俺以上に美しいものが居るなんて・・・」 「賢司くんのそういうところは俺も嫌いじゃないけどね」 「ムカつく・・・来なきゃ良かった」 「酷くない?賢司くん」 賢司の髪は中々乾く気配はない。夏衣は不意に拭く手を休めて、賢司の若干濡れている髪の毛を下からそっと梳くって、白いうなじにひとつキスをした。賢司は眉間に皺を寄せて、それでも特別抵抗する様子はなかった。賢司はいつもこうだった。拒絶もない代わりに完璧な受容もしてくれない。 「賢司くんいい匂いする・・・」 「お前の家のシャンプーだろうが」 「そうかな、こんな匂いだったっけ」 「離せよ、夏衣。あんまり感心しないぜ」 「・・・どうして、行っちゃうんだろ」 「・・・」 「俺にさよなら言いに来たんだろ、賢司」 夏衣のその桃色の目が、一瞬鋭く光ったような気がした。夏衣は今までとは打って変わって酷く乱暴な動作で、賢司の胸元を掴むと強引に唇を奪った。そのまま冷たい床に押し倒して、組み敷く。まるで元々用意されていたようなやり方だった。完璧な身のこなしで、賢司はそれに恐怖すら覚えた。 「・・・御免な、夏衣」 「・・・は・・・はは・・・謝らないでよ・・・虚しいじゃん・・・」 「・・・でも、御免・・・」 「・・・」 「お前ひとり、置いていくんだ、俺は」 知っている。その目を知っている。夏衣はその目を濁らせて、でも泣かない。賢司は手を伸ばして、邪魔をしている夏衣の眼鏡を取った。綺麗な色をしていると思う。夏衣を白鳥に縛り付けているその色は、それとは関係なく全く美しい色だと思う。賢司は上半身を起こして、俯く夏衣を抱きしめた。言葉は必要ない。かえって壁が出来るだけだった。こうして体を突き合わせるだけで、二人とも十二分に理解していた。 「・・・最後にやらしてくれてもいいじゃん・・・」 「お前は本当の馬鹿だな、友達はそんなことしねぇんだよ」 「・・・友達居たことないもん・・・」 「俺が居るだろ、馬鹿」 「賢司くん俺の恋愛対象だし・・・」 「おぞましいからそこから先は言うな」 肩越しで夏衣は少し笑って、腕を回してぎゅっと抱きしめ返した。白い壁、この白い壁に囲まれて、夏衣はここで生活しているのか、賢司はプラチナに来た時にそう思った。この白い世界が、夏衣の家なのか。だとしたら覚えておこうと、忘れないで居るために、覚えておこうと、そう思っていた。 「・・・逃げるんだ」 「逃げる」 「そうか、長かったね」 「あぁ、長かったよ」 「・・・賢司くん」 「なに」 「ホントにそれで良かったの?」 夏衣のそれに、多分大した意味は無いのだろうと思った。夏衣は白鳥である前にひとりの人間で、それから賢司の幼馴染で、一番の理解者だった。だから夏衣には分かって貰えると思っていたし、夏衣に分かって貰えないことを世界に提唱しても無理なことも知っていた。 「それで良い」 「・・・そっか」 昔、それは随分昔の話になる。夏衣が中学生の頃、勿論賢司も中学生だった。ある日突然、賢司はプリーツのついたスカートを穿いて学校に来た。それから夏衣は、賢司が外に居る時はずっと、スカートを穿いているのを知っている。そして自分のことを桃ちゃんと呼べ、と言い出して、随分と始末が悪かった。 「『遊楽院家の長男は、女装趣味の変態』」 「もう、この肩書きともおさらばだな」 遊楽院家は白鳥を崇拝する御三家のひとつであった。賢司はそこの長男で、同い年の夏衣と幼馴染だった。だから夏衣には痛いほど良く分かった。賢司がある日突然スカートを穿いてきたって、何の驚きもしなかった。あぁ、逃げるんだ。夏衣は目の前に靄がかかったように、そう思ったものだ。 「でも結構かかったよね、10年?」 「あぁ、そんくらい?結構あいつらしつこくてさー・・・」 「・・・」 「院家の跡継ぎがそんなことで如何するのって、知らねーし、俺にそんなこと言われても」 「・・・お母さん泣かしたんだ」 「勝手に泣くんだよ。あのクソが。カウンセリングだ、何だって色々連れまわして自分がぶっ倒れてやんの。笑えるだろ?てめぇが厄介になってんじゃねぇかって、いや、爆笑だったね」 「・・・親不孝もの」 「あんな奴ら親じゃねーし」 賢司のその目の辺り、その頃と何も変わっていなくて、夏衣は少し嬉しかったし懐かしかった。まだ濡れている髪を少し撫でて、目尻にキスを落すと賢司は、少し唇の端を持ち上げた。賢司が外した夏衣の眼鏡が、白い床に落ちたまま持ち主の声をじっと待っている。

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