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僕とエミリー Ⅵ
賢司は結局、その女装趣味を貫き通すことで、上の人間からの圧力から逃れることになった。今ではもう誰も賢司に跡を継げとは言わなくなり、大事な会議も知らない間に行われていて、屋敷の中に居てもまるで居ないように扱われた。そうして賢司は本当に、屋敷から居なくなってしまう気なのだ。
夜はそこまで来ているようだった。夏衣はカーテンを閉める手を止めて、奥に光るきらきらのオレンジを見ていた。いつか京義に言ったことがある。何を見ているのかと、何か面白いものでもあるのかと。でも知っていた。京義はこのオレンジを見て、それなりに楽しんでいたことを。夏衣はカーテンを閉めて、賢司の寝転がるベッドに戻った。ベッドはこれひとつしかない、と言うと賢司はあっさり狭いけど仕方ないと言った。全く何を考えているのか分からないところがまた良いのだが、時々困る。
「何かふたりで寝るの久しぶりだなー」
「・・・そうだっけ」
「昔はよく一緒に寝てたじゃん。お前中学ぐらいの時から俺のこと家に上げてくれなくなったけど」
「だって『遊楽院家の女装趣味の長男』と関わるなって言われてたし」
「オイオイ、白鳥様ぁ、そりゃねぇだろ」
「止めようよ、それ、あんまり良い気分しないしさぁ」
「そうか?王様みたいでかっけーじゃん」
隣で賢司が屈託なく笑う。夏衣はそれを見ながら妙な気分だった。温かいわけじゃない、でも冷たいかと言われたら、そうではないのも分かっている。複雑だった。微弱な変化を賢司は知っている。夏衣の頭をぽんぽんと撫でた。去っていくぬくもりに手を伸ばした夏衣を、賢司は払わないでそっとしていた。
「・・・どこ行くの?」
「さぁ、どっか。地雷のある国かな」
「・・・地雷?」
「あぁ、学校作るのも良いなぁって思うんだけど、そこで英語教えんの。良くない?」
「・・・賢司くんは昔から変わってない」
「そうか?」
「昔から、ずっとカッコいいよ」
「・・・まぁな!あんな黒い奴には俺だってまだまだ負けてねぇな!」
賢司は昔からそうだった。昔からずっと夏衣の側できらきらとしていた。ヒーローだったのだと思うのだ、今となっては。ありもしない幻想に夢を膨らませて、大人は挙ってそう言ったけれど、夢は幻想のままでは終らなかった、賢司の場合は。終らないで止まらないで、こうして続いていく。その何と羨ましいことか、その何と美しいことか。そうしてそれは幻想ではなくなる。形になってその手に掴める。
「夏衣は?」
「え?」
「お前はどうすんの?」
「・・・俺は・・・逃げる勇気なんてないよ」
「・・・」
「多分白鳥にいる。ずっと」
「それで良いのかよ」
「分からない。でも他にどうしようもないから」
「・・・」
「俺も賢司くんみたいだったら良かった」
「・・・」
「そうすれば・・・―――」
そうすれば何か変わったかもしれないし、何か変えられたかもしれない。そんな風に思って溜め息ばかり吐いていた。逃げる勇気がないから目を、耳を塞いで、じっとしておくことしか出来なかった。時々暗い部屋に一筋の光が指し、その向こうで男の手が、自分を呼んでいるのが見えるのだ。
「夏衣」
「・・・なに」
「そんなこと言うなよ」
「・・・ホントのことだよ」
「お前はお前で、良いとこあるし」
「どこ」
「・・・まぁ、色々?そう、こういうもんは言葉には出来ねぇんだよ!」
「へー・・・」
夏衣は少し笑って、賢司の手をそっと握った。賢司は何も言わないで、されるようにしている。賢司はいつだってそうだった。だから夏衣も本当のことを言うのを、いつも躊躇っていた。分かり合えると思っていたし、分かり合っているとも思っていた。指先が震えて眠れない、冷たい夜が来るまでは。
「・・・御免な、夏衣」
「・・・」
「お前だけには、ちゃんと言おうと思った。御免もさよならも」
「俺、賢司くんがするのが一番いいと思ってる」
「・・・そう・・・か」
「だって賢司くんの人生だもん。賢司くんの思うのが正解で、賢司くんがするのが一番良いことだよ」
「・・・」
「行って来て、俺の分まで見てきて、広くて遠い世界」
「・・・あぁ」
さよならと、遂に賢司は口に出さなかった。夏衣もそれ以上は言うのを止めた。分かっていた。さよならと言って別れたら、もう二度とは会えないことも。夜が満ちるこの部屋ごと、昔に戻ってしまえば良いのに、昔に戻ってまた何でもないことで笑えたら良いのに。幾ら手をきつく握ってもそんなことは起こらないけど、夏衣はそう願って止まなかった。隣に居るその人が、まさか居なくなってしまうなんて考えられなかった。
「夏衣」
「・・・ん」
「俺、会議外されてるから良く知らねーけど、何か院が怪しい動きしてる」
「・・・怪しい動き?」
「あぁ、お前に対して。近々誰か会いに来るかもしれない」
「・・・ふーん・・・」
「飲まれんなよ」
「悪く言うの止めなよ。自分の家でしょ」
「・・・兎に角、覚えとけよ」
「もっと色気のあること言ってよ、最後の会話がそれなの?」
茶化して夏衣が笑うと、賢司は不意に口を噤んだ。握っていた手を離して、ごろりと寝返りを打って夏衣に背中を向ける。離された指先は冷えていって、夏衣はそれを暗がりの中で見つめていた。
「・・・言わなかったけど」
「なに?」
「俺、夏衣になら抱かれてもいいって、思ってた」
「・・・―――な、なん・・・!?」
「おやすみ」
「ちょ、ま、何で最後に言うの!ねぇ!い、いや、今からでも遅くないよ、賢司くん!」
「馬鹿が、もう寝るんだよ。お前も寝ろ」
「何それ!酷い!あんまりだよ!」
「あーうるせー・・・」
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