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僕とエミリー Ⅶ

朝起きると、賢司の姿はもうなかった。ど派手なピンクの服も靴も日傘も鞄も、夏衣が貸した黒のジャージも。あぁ、本当に居なくなってしまった。夏衣はベッドの上で途方に暮れていた。どうしたら良いかなんて、これから永遠に分からないことだ。まだ外は薄暗くて、覚醒の時を待っている。夏衣は暫く座り込んでぼんやりしていたが、水でも飲もうと思って、夏衣は床に落ちたままの眼鏡を拾い、部屋を出た。 全て無くなってしまったから、綺麗に。もしかしたらアレは、夢だったのではないかとも思う。談話室まで行くと、そこには電気がついていて、一禾が起きているのだと不意に思った。今は誰かに会いたくなかった。自分はきっと酷い顔をしているし、多分優しくする余裕なんて残っていない。夏衣はノブに手をかけて、少し考えて部屋に戻ることに決めた。ゆっくり足音を消して、ユーターンすると後ろでガチリと扉の開く音がした。 「・・・夏衣」 「・・・ぁ」 そこに立っていたのは、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた京義だった。一禾だとばかり思っていたので、夏衣は不意のことに少し驚いていた。京義はバイトだったかなと思ったが、昨日の夜のことは良く覚えていなかった。京義は扉のところに立ったまま、険しい顔で此方を睨んでいるが、夏衣にしてみればそんなに嫌悪を剥きだしにされる覚えは無い。何か言おうとして声が掠れた。何を言おうとしたのか自分でも分からなかった。 「・・・あの女」 「女?」 「・・・何なんだよ。あの女」 「・・・あぁ・・・桃ちゃん・・・か」 「あぁ、じゃねぇよ。お前マジであんな女と付き合ってんのか」 「・・・そうみたい」 「いくとこまでいってんな、お前」 「・・・そんなこと言うために早く起きたの?」 京義は険しい顔を、いつもの無表情にさっと戻した。これ以上の詮索は無意味だと知っていたけど、夏衣は何だか嬉しかった。賢司が居なくなって、分かっていたけど地に落とされた気分だったのが、少し和らいで、気付けば笑っていた。京義は迷惑そうにそれを見ている。 「あぁ、そうか。何だ」 「・・・」 「やきもち?」 「・・・寝言は寝て言え、馬鹿」 「だってそうでしょ、京義。気になったの?桃ちゃんのこと」 「あんな女と付き合ってるようなテメェの神経疑うっつってんだよ」 「やだ、もー。照れちゃって、可愛いとこあるじゃん、京義」 「・・・話を聞けよ」 「大丈夫だよ、京義」 「・・・」 「俺ふられちゃったから」 「・・・は?」 「もう、会えなくなっちゃった」 夏衣は出来るだけにこやかにそう言ったつもりだったが、京義には何だかそれがそれだけに痛々しく思えた。怒る気力も失せる。本当は訂正したいことも沢山あるのに、何だか夏衣を前にするとそれをちゃんと言葉には出来ない。いつもだった。いつもそんな感じで流されている。 「・・・何で」 「・・・遠いところに行くんだって、だから」 「・・・」 「さよならだってさ」 結局賢司は最後まで、さよならとは言わなかったけれど、それは言わなかった事実がそこにあるだけで、現実と何ら大差ないのだ。賢司は居なくなってしまったのだから。京義は黙って夏衣を見上げていて、夏衣は黙って少し節目がちに薄桃色を細めていた。泣いたり悲しんだり、しないのだろうと思っていた。だけど夏衣はその時随分、分かりやすい形で傷付いていた。何だか、染のようだと京義は思っていた。 「・・・お前」 「でも皆には内緒にしておいてね、カッコ悪いでしょ」 何だか見ていられなくて、京義は目を反らして足を少し後退させた。扉に手を掛け、閉めようとゆっくり引っ張ると、がつりと音がして、見れば夏衣が上で扉を押さえていた。時々居た堪れない気持ちになるから、荒れる夏衣の、どうしようもない弱った表情なんて、本当は見たくないのだ。付け込まれる気がして嫌だから、振りほどけない気がして嫌だから。 「・・・何だよ」 夏衣は何も言わなかった。濁った目をしている。京義の髪をそっと撫でて、下から掬った。京義が夏衣の手を静止のつもりで掴んだが、濁った目でちらりと見られただけだった。流石に時間はまだ早いが、一禾がいつ降りてきたって可笑しくないのだ。京義はゾッとしたが、夏衣は京義のそんな心の内なんて全く無視である。銀とも灰色とも取れる京義の可笑しな色をした髪の毛を掬うと、そこに白いうなじが見える。夏衣はそこに唇で触れた。京義の体が一瞬硬直する。腕を掴む京義の手に力が入って、ぎちりと音を立てた。 「オイ・・・」 「京義・・・いい匂いだね」 「なに・・・離せ、よ」 「・・・」 「・・・夏衣・・・?」 あぁ、この匂いはそうだ。賢司と同じ匂いだ。やはりこの匂いは、一禾が買って来たらしいホテルに置いてあるシャンプーなのだろうか。確か賢司は、そんなことを言っていた。夏衣はそのことを思い出して、暫く京義に凭れかかるように、そこに立っていた。 彼は本当に居なくなってしまった。さよならも言わずに居なくなってしまった。奇妙な香りだけを残して、もう二度と会うことは出来ない。

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