74 / 302
カリエスを待って
「苛々しているわね、随分」
「・・・別に・・・」
「まぁ良いんじゃない、貴方は少し頑張りすぎだと思うから」
「・・・」
「少しは我侭言ったって、許されるわよ」
許されるのかな、一禾はふわふわのベッドに横になったまま思った。ちらりと視線を上げ、捉えた彼女はグレーのスーツを着ている。これからどこかに行く予定でもあるのだろうか、なんてそんなことは自分には関係の無いことで、分かり切っていたし割り切っていたつもりだった。突然昨日連絡も無しに家を訪ねて、部屋に入れてくれただけで充分、それ以上を安易に望んではいけない、一禾はぼんやりと考えながらそうやって上手く防衛機制を働かせる。そしてベッドに寝転がったまま、彼女の方は見ずに呟いた。
「・・・どこか行くの?」
「うん、ちょっと」
「・・・そう」
「鍵、置いておくから帰るのなら閉めておいてね」
彼女はとてもきっぱりさっぱりしているから、一禾の知っている他の誰も言わないようなことを平気で言う。付き合う人間は一応選別しているつもりだから、一禾はこれでも面倒な女を相手にしていない自負はあった。それでも時々彼女たちは感情的になって、一禾を無駄な拳で責めるのだった。行かないでくれとか、ここに居てくれとか、他の女と別れろとか。一禾はぼんやり考えていた。側に落ちている白い携帯は、一禾のものだが中身は全く把握していない。それは彼女も、自分もである。
「梨香さん」
「・・・なに?」
「俺、ご飯作って待ってる」
「・・・良いよぉ、別に。明日大学は?」
「夏休みだから無いの」
「へー・・・良いなぁ、学生。戻りたいわぁ・・・」
「待ってる、待ってるから帰ってきて」
「・・・どうしたの、一禾」
だから時々怖い。そんな言葉で縛り付けない自信が、彼女にはあるのかと思ってしまう。自分には決して手に入らないからと一禾が鼻から諦めてしまっているそれを、彼女は錯覚でも知っているのかと思う。俯いた一禾の頬をそっと撫でて、そこに触れるだけキスをする彼女からは、何ともつかない良い匂いがしている。一禾は去っていこうとする彼女の手首を握って止めた。
「・・・何かあった?」
「・・・無いよ」
「おかしいと思ったんだよねー、一禾が連絡も無しに来るなんて珍しいし」
「・・・何か無いと来ちゃ駄目なの?」
「でも、泣きそうな顔してるし」
「してない」
「喧嘩したの?」
「してないよ、だから」
「苛々してるし」
梨香はふうと息をついて、ベッドに座ったままの一禾の頭を、ぐしぐしと余り上品とはいえない方法で撫でた。それに一禾は眉間に皺を寄せる弱い抵抗をする程度で、殆どされるままだった。大人になりたくても、一禾はまだ子どもだと特にこういう時は思う。どんなに大人のふりをしたって、こうして時々襤褸が出るから、大人にはなれない、大人に憧れる子どもだ。
「駄目よー、謝りなさい。ホラ、携帯あるでしょ」
「してないってば」
「じゃぁ何をそんなに苛々しているの?らしくないわねぇ」
「・・・別に・・・苛々なんて・・・」
「自分の顔良く見てみなさい。酷い顔してるから」
「・・・してない」
「・・・強情」
「俺待ってるから、帰ってきて」
唇から薄っぺらく零れる、それは稚拙な呪文だと思った。梨香はそれに肩を竦めて、ふうとまた溜め息を吐いた。一禾には帰るところがあり、そこで待つ人も居るのだろう。梨香はその存在を知らなかったけれど、一禾の言葉の節々に、時々それを感じることがある。今は目を伏せて全く動く様子のないこの美しい生き物は、そしてその言動に格好悪く振り回されているのだと思うと、何だか少し可愛くも思えた。
「今日は帰らない」
「・・・何の用事?」
「さぁ、何だろ。合コンかもね、会社のプロジェクトかも」
「俺が居るのによくそんなところ行けるね」
「決め付けないでよ、二択にしてるじゃん」
「でもプロジェクトだ。合コンにグレーのスーツで行ったりしない」
「行ったこと無いくせに」
「行かなくても来てくれるんだもん」
「・・・ムカつく」
「帰ってきてね」
一禾のことは良く分からない。良く知らない方が良いと思うからだ。鍵を閉めずに出て行く後に、次開けたとき中に誰も居ないことに落胆しないようにするためだ。そうやってにこりと笑うこの生き物のことなど、永遠に分からない方が身のためになる。さっきまで険悪な雰囲気を醸しだしていた一禾は、途端に気分が良くなったのか、絵に描いたような屈託の無い笑顔で、こちらに微笑みかける。
「鍵、ここに置いておくからね」
「閉めて出て行っても良いよ」
「アンタ、そんなことばっかり言っていると、いつかホントにそういう目に遭うよ?」
「大丈夫だよ。本気にするような人には言わない」
「あぁ、そう」
「うん、そう」
がちりと金属の音がして、鍵は机の上に置かれる。勿論、掛けて出て行ったりしない。仕方なく梨香はそれ以上一禾に構わずに、玄関に向かった。何が気に入らなくて、不貞腐れて昨日やって来たのだろう。知る由も無いけれど、時々そうやって考える。自分を呼ぶ声がして、梨香はパンプスに指を引っ掛けながら振り返った。
「いってらっしゃい」
「・・・ハヤシライスがいい」
扉に手を掛け、出て行く。その時一禾が勝ち誇ったように、それでいてどこか歓喜を孕んだ方法で、にこりと笑ったのを知っている。腹が立つけれど本当に、泣きそうな顔も何だか可愛くて許してしまいそうになるから、だから仕方が無いのかもしれない。
(クソ、甘やかしてしまった・・・)
ともだちにシェアしよう!