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飛ぶ夢を暫く見ない Ⅰ
夏休みも、終わりに近づいたある日の午後だった。
「夏衣」
「お、染ちゃんどうしたの?」
「俺ちょっと出かけてくるわ。晩飯までには戻るからさ」
「うん、分かった。いってらっしゃい」
日頃から何かと言って、夏衣は談話室でページを捲っていることが多かった。その種類はこちらが首を傾げるほどの多様さで、最新の文庫本から、俗っぽいファッション雑誌、旅行ガイドに分厚い医学書、こうなるともう一貫性がそこに存在していないことなど誰もが周知の事実だった。その時は、タウン情報誌をいつものように興味が無さそうに捲っていた。夏衣は読んでいる雑誌がそんなに面白いのか、後ろから声をかける染のほうを一度も見ないでただそう答えた。染もそれ以上用は無かったのか、適当に返事をすると、談話室の扉を閉めて出て行った。外は随分と暑いようだったが、部屋の中にいれば問題はない。夏衣は雑誌を捲って、氷の入ったグラスを傾けた。中に入っているのはオレンジジュースだったのだが。
「・・・―――え?」
不意に夏衣は自ら以外誰も居ない談話室で不気味とも思えるタイミングで声を上げ、読んでいた雑誌を放り出して忙しなく立ち上がって振り返った。しかし、そこには夏衣の探した染の姿はもうなく、それを暗に主張する形で、扉は染の意思を汲んできちんと閉まっていた。夏衣は慌てた。しかし、談話室には夏衣のほかには誰も居らず、ひとりで非常とも思える方法で髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら取り乱したが、ひとりで焦っても勿論どうにもならず、テーブルの側を行ったり来たりするに留まる。すると不意に扉が開き、夏衣は思い切り振り返ったが、そこからは染ではなく一禾が顔を出した。
「い、一禾ぁ!」
「・・・どうしたの。相変わらず煩いなぁ」
「ど、どうし・・・」
「だからどうしたんだよ」
「そ、染ちゃんが・・・」
「染ちゃん?」
「染ちゃんがひ、ひとりで・・・ひとりでどこか・・・行くって・・・!」
「・・・―――」
ホテルの人間ならば皆が知っていることだったが、染は基本的にホテルから出ない。余程滅多な用事でないと行きたがらない。そして染を動かすほどの滅多な用事は、往々にして訪れ難かった。本当にどうしてもという場合と、学校がある場合だけ、大体一禾に背中を押されて、苦渋の選択の末、その背中を丸め、まるでこの世は不幸なことばかりとでも言いたげにとぼとぼと出て行く。それが今日は如何したことか。夏衣はその表情まで見ていたわけではないが、声のトーンはいつもと何ら変らなかったような気がする。しかし、一禾は余り驚いた表情をしなかった。神妙に黙って、眉間に皺を寄せる。
「ど・・・どうしよう・・・雪が降るよ!」
「ナツ、落ち着きなよ。真夏だよ」
「真夏の雪だよ!もしかして日本が滅ぶのが近いのかも・・・!」
「そんな・・・沈没船のネズミみたいに言うなよ」
「で、でもさぁ!」
「・・・あぁ、そうか。でもひとりで・・・ねぇ?」
腕を組んだまま一禾は、どこか確かめるように呟いた。
「な、何一禾・・・心当たりあるの・・・?」
「うん、まぁ。無いことは無い」
「・・・な、何だ・・・じゃあ大丈夫かな・・・」
「多分、先生のところに行ったんだ」
しかし夏衣の心配を他所に、一禾は何でも無いようにそうそっと呟いた。そしてそれは分かってみれば、実際何でも無いことだった。一禾のそれは夏衣に言っているようにも聞こえたし、ただの独り言のようでもあった。夏衣が先ほどまで手持ち無沙汰に指先で弄っていたテーブルの上のオレンジジュースを、一禾は颯爽と取り上げ夏衣の承諾なしに勝手に飲み干した。氷が中で融けているのか、冷たいオレンジは冷たいだけで酷く薄く感じた。一禾はそれに目を細めたが、文句を言うわけでなくコップを戻し、夏衣の見ていた雑誌を引っ張り、ページを捲る。この様子ではどうやら一禾もすることがないらしい。夏衣は暫く一禾の言葉を反芻していたが、ややあって一禾の座っている正面の椅子を引いてそこに腰を据えた。
「先生?」
「うん」
「先生とイケナイ放課後・・・」
「・・・は?」
「ドキドキ、恋のレッスン!?」
「・・・何言ってんの・・・え、ナツ・・・?」
「そんな!駄目だよ!俺だってまだなのに!」
「・・・ナツは1回池の底にでも沈められると良いよ」
「えー・・・だってさー・・・」
口元に一禾の嫌いな種類の笑みを蓄えたまま、夏衣はひとつも反省していない顔をしたまま、不服そうに言いながらもどこか満足そうだった。
「だってじゃない。言っとくけど、ナツが今後染ちゃんとそんな関係になる確率はゼロパーセントだからね」
「そんなの今は分かんないじゃん!」
「いや、無理だよ。そんなこと俺が許さない」
相手にするのも煩わしい雰囲気で、一禾は全く目を上げずにそれにぶっきらぼうに答えた。言葉はどこまでも断片的で断定的だ。一禾は可愛い、夏衣はそれに暫く返事をしないでただ口角を上げていた。一禾の目は面白くもないタウン情報誌の文字の上を、滑るように流れている。言葉にしたくて、でも言葉に出来ない。なんて不器用で、だからとても可愛い生き物だと思う。夏衣はこっそり自分の中だけで、一禾のことを春樹に似ていると思っていた。泣くことでしか自分の意思を相手に伝えられない春樹に、一禾はとても良く似ている。
「夏衣も知ってるでしょ、江崎先生だよ」
「・・・一禾は可愛いなぁ」
「はぁ?摘むよ。話聞いてるの?」
「いやぁ、染ちゃんも可愛いけど、やっぱ一禾かなぁ」
「意味分かんない」
「・・・許さない?そんな権限もないのに」
「・・・そんなの、ナツに関係ない」
「はは」
「なに」
「かーわぁいい」
だから時々、本当のことを言うのは一体どういうことなのか、一禾に耳打ちしたくなる。言葉を途切らせその耳を舐めたら、彼は一体どんな言葉で、今度は自分を詰るのだろう。夏衣は奇妙に笑いを立てて、椅子を引き立ち上がった。そうしてそのまま、他には何も言うことはせずに談話室を出て行く。本当に時々、そう思う時に限って周りに誰も居ないことが多いから。
(ついてるのかなぁ、俺)
憎たらしく一禾の顔が歪むのを、時々楽しい気分で見ていてしまうから。
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