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飛ぶ夢を暫く見ない Ⅱ

知っていたと思う。一人で歩けたと思う。それは甘えで許されなかったと思う。 随分と若く見える男がそこには座っていた。染は建物に入ってもまだサングラスを取れないまま、それを黒ずんだ景色の中から見ていた。男が不意にこちらに気付いて、顔を上げる。面白いくらいそれと同時にびくりと体を硬直させると、男はゆっくりと微笑んだ。それは随分と前から用意されたやり方で、男はここを訪れる人全てにそうしているのだとすぐに分かった。しかし染はそれにどんな顔をして良いのか分からず、何か言おうとしたけれど、開けた口からは何も出てこなかった。 「・・・どちらの先生に御入用でしょう?」 「・・・えさき・・・せんせいに・・・」 「江崎先生?それでしたら3番の扉からどうぞ」 「・・・どうも」 男はにこりと笑って、いいえと答えて少し首を振った。思ったように言葉が出てこないのはいつものことだった。男は染より若年であるような容姿をしながら、その声は酷く落ち着いた大人の声だった。染はそれに恥ずかしく思いながら、被っていた帽子をぎゅっと握った。言われるままに染は真っ白な廊下を奥へ進み、3番の扉を開けた。薄い水色のカーテンが部屋の中、はためいているのが見える。染はそれの端を少しだけ掴んで、ゆっくりと引いた。ローテーブル、その側に置かれた黒いソファーにひとり男が座っている。 「・・・先生」 「いらっしゃい、染。待っていたよ」 先生に会うのは随分久しぶりのような気もするし、昨日会ったような身近な存在の雰囲気もそこには在る。この不思議な感覚は、そして染がここに来るようになってから全く変わっていないのだった。初老の男はソファーから立ち上がらずに、そこでただ染の目を見て優しく微笑んでいる。染はそれに以前自分が此処を訪れた時にどんな顔をしていたのか忘れていた。でも多分、とてもほっとした顔をしていたのだろうと思った。その時もそうだった。先生の顔を見ると自然に頬が緩んで、今まで外界に対して突っ張っていた緊張が解けて安心していた。染はその水色のカーテンを今度は強く引っ張って、部屋の中に入った。 「元気そうだね」 「元気、です」 「うん、良かった」 染が向かいのソファーに座ると、江崎は随分と緩慢と思える動作で、染のほうに手を伸ばした。誰とも違うと思う。この安心感は、誰でもないと思う。江崎は染の頭を少し撫でた。一禾でも、夏衣でも、染の頭をこんな風には撫でられない。この安心感はもたらされない。染はそれを感覚レベルで知っている。それは江崎でなければならなかった。少なくとも染の中では。 「白鳥さんは?」 「・・・夏衣?」 「元気にしてる?」 「・・・あぁ、はい、多分」 「うん、そう」 「なんで?」 「僕は心配だよ、今でも思うんだ。あの時、君をあそこに、あの人に預けてしまって、果たしてそれが本当に良い選択だったのかなってね」 「・・・」 「だから染が、元気だったら嬉しい。幸せだったら、もっと嬉しい」 「・・・先生が、迷ってたと思わなかった」 「うん、まぁ、本当はこんなことを言って、君を混乱させてはいけないのだろうけれど」 昔、家に土足で上がってきた男は、手にチェーンソーを持っていた。ジェイソンみたいだと、ぼんやり思った。染はその時のことを良く覚えている。江崎のそういう横顔は、何だか此方を不安にさせる。染は手をぎゅっと握った。殆ど何もない部屋。隅に机があって、隣に窓がある。窓は開いていて、そこから時々風が吹き込む。水色のカーテンはそれで少し揺れているように見えた。 「・・・先生」 「ん?」 「俺、大丈夫です」 「・・・」 「俺、多分あそこで上手くやっていける、生きていけます、ちゃんと」 「・・・」 「だから、あの時の先生の判断は、間違ってない・・・」 「・・・」 「・・・と、思う・・・」 優しい人ではあったけれど、二人で外を歩いたことは一度も無かった。連絡先も知らないで、この部屋から出たことはなかった。昔一度聞いたことがある。先生は外に出なくて良いの、その時江崎が何と答えたのか、上手くは思い出せないけれど。 「・・・有難う。染に気を遣われるなんてね」 「べ、別に、そんなんじゃ・・・」 「そうだね、間違っていないって、信じなきゃ」 「・・・」 「学校は楽しい?」 「・・・た、のしい・・・」 「まだ人ごみは苦手?」 「・・・」 「楽しかったことはある?最近」 「・・・さいきん」 何も変わってないのかもしれないと、時々思っていた。染は顔を上げて、開けたままの窓を見つめた。 「毎日、楽しいことばっかりだよ」 「・・・」 「この間、つっても4月くらいなんだけどさ、紅夜って奴がやってきたの、ナツの親戚なんだって」 「・・・ふうん、それで?」 「京義と同い年でさ、関西弁なの。頭良くてさ、騒がしくて、煩いけど・・・毎日、楽しい」 「・・・」 「先生?」 「・・・あぁ、御免、ちょっと嬉しくなっちゃった」 開けた窓からやって来る。閉めないで、と言われたことを思い出す。江崎は笑って、そっと目尻を拭った。変わらないことなんてやっぱりどこにも無いのかもしれない。それが爪の端くらいの小さな変化でも良かった、間違ったことをしていないという確証以上に、染が幸せに、少しでも幸せになって欲しいと思っていた。 「良かった」 「・・・何が?」 「染が幸せそうだ」 「・・・しあわせ・・・?」 「良かった、僕は今とても嬉しいよ」 幸せって何だろうって思ったけれど、江崎がそう言って笑ったのを見ていると、そんなことを聞けなくて、聞くわけにはいかないような気がして。 染は黙ってしまった。

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