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飛ぶ夢を暫く見ない Ⅲ
空は青くて、高くて、敵わないくらいの巨大な色をしていた、いつも。染はそれを見上げては、果てしなさに眩暈がしていた、いつも。揺るがなくて、広大過ぎるそれはとてもその小さかった両手では捉え切れなかった。成長しきった手のひらを見つめたまま考える。けれど今だってそれをこの手中に収めることが出来なくて、幼かった日と同じ尺度で、ここからそれを見つめているだけだった。掴めるくらいの永遠だったら、意味なんてどこにもないと思っていたけれど、それ以上におそらく確固たる理由が欲しかった。
「上月くんは元気?」
「・・・一禾は・・・うん、まぁ、元気?」
「あれ、もしかしてもう一緒に住んでないの?」
「いや、住んでる・・・けど」
「・・・けど?」
「・・・」
一禾は何も思わなかったと思う。その時一禾はいつもと同じ表情をしていたから、染ちゃんお早うと言うのと同じ要領で、それはきっと吐き出された言葉だったから。だけど染はそうではなかった。その時時間が止まったのを感じた。何の感覚もなくて、ただ頭の中で言葉だけがリフレインしている。この感覚は酷く懐かさとともにあったが、ぼやけた詳細は覚えていない。思い出したらじくじくと胸が疼く。誰よりも側に居て、誰よりも信用していた。でも、それは一体何かと聞かれたら、言葉には出来なかった。言葉に出来ないものは嫌いだった。確証がないから、だからいつも怯えてはその手を掴んで泣いていた。
「・・・先生」
「うん?」
「・・・俺は、俺は・・・いつか・・・」
卒業したらその先は、就職したらその先は、結婚したらその先は。その言葉にはいつも追い詰められている気がしてならない。どこにも逃げ場がない気がしてならない。後ろを向くと落ちてしまう気がしてならない。その時染の顔に翳りが広がったのを、江崎は酷く冷静に観察していた。何かがそこで、動き出そうとしている。変わりようもない子どもだった、染の中で。言おうとしている、何か。
「・・・あそこから・・・出る日が来るのかな・・・」
「・・・」
「あの家から・・・出たみたいに・・・」
「・・・染は、どうしたいの?」
「俺は、俺はあそこにいたい。あそこにいたい、でも」
「・・・」
「それじゃ駄目だって、分かってる、分かってるけど、頭では、でも」
「・・・うん」
「出たら俺どうしたら良いの?俺に何が出来るの?生きていけるの?分からない、分からない、よ」
「・・・染」
「・・・どうしたら、いいの」
染にとっての世界はいつも恐怖に満ち満ちていた。暗闇から白い手が無数に伸びてきて、染の体を引っ張る、それはもうこの世のものとは思えないほどの凄い力で。購えなくてそのまま、真っ黒い空を見ながら、体が裂けるのを待っている。染の意見は無視されて、世の中は言いたい放題、口の数だけ人が立っている。それに囲まれて、耳を塞いでも誰かの叫ぶ声は消えずに、息も出来ない。
苦しそうに染が一度息を吐いた。青い目が透明な液体で満たされてゆく。それを止めようも防ぎようもなく、ただ江崎は見ていた。苛立ちと心痛の間で彷徨う染の長い指が、ぐしゃぐしゃとその漆黒の髪を掻き回す。見ていられないほど染は正しい方法で傷付き、それを隠そうともしない。いや隠す術をこの子どもは身に付けていないのだと江崎は知っている。傷口はここですと見えるように、こちらに無防備とも思える方法で曝け出す。誰かの治療の手をそうして待っているのだ。自己治癒力をそうしていつの間にか、失ってしまっていた。
「一禾が・・・言うんだ・・・いつも」
「染ちゃんに何が出来るのって、卒業したら如何するのって・・・俺、答えられない」
「・・・答えられないんだ、いつも・・・」
言葉が出てこない。答えが見つからない。息が出来ない。
「一禾が居ないと困るのに・・・眠れないのに・・・俺は時々、一禾の姿を見るのが怖い」
「あんなに優しくして貰っていて、こんなことを考えているなんて・・・俺、可笑しい」
「最低だ・・・」
染は時々、こうやってふらりとやって来る。震える声で電話が掛かってきて、震える足でやって来る。震える唇で呪いの言葉を繋げて、頭を抱えて自分を罵る、それはもう癖みたいなものだった。江崎は黙って、染の頭を撫でた。そういう時の染は、狂おしいほど何も求めていない。言葉で表せるものなんて、意味はないことを知っているのだ。けれどそれに縋ってしまうのは、言葉に出来る方が容易く、目に見えるし掴めるものであるからだろう。それは染が一番欲しがっていた確固たる証拠だった。
「先生・・・俺はいつか・・・一禾の居ないところで生きていくようになるのかな・・・」
助けを呼んでいる声は聞こえる。でもそれには答えられない。江崎は黙って、染の頭を撫でていた。無力だと思う。染の言葉はそれを望んでいるようにも、それを恐れているようにも聞こえる。どちらかなんてきっと本人のほうが教えて欲しくて分からないから、苦しんでいるのだろう。開けられた窓はこの脆い心のため、いつでも入って来られるように、いつでも逃げて来られるように。
「・・・」
無力だと思う。自分は何と無力で、この子は何と愚かなのだろうと、思う。
(答えてくれなかった・・・な・・・)
結局自分は何を言ったって、誰かのせいにしたいのだと思う。自分で全て抱え込むことなんて出来そうもないから。各駅停車のそれは空いていて、染はその一番端に座ってぼんやりとしていた。江崎は結局黙っていた。答えてはくれなかった。だけどそれは自分で決めることだとも、言わなかった。江崎はいつもそうだと思う。欲しいものを、染の欲しいものを恐らくは感じ取って知っているくせに、それを明確に与えてはくれない。いつもそうだと思うけれど、不思議とそれに裏切られた気はしないのだった。あの人は自分の味方だからと、認識が先走っているからなのかもしれない。だからまた会いに行きたいと、離れた側から思う。
(・・・大人は優しい・・・)
だから弱い子どものままで居たかった。そして居られると思っていた。自由にして良いよと、自分で決めて良いよと言われると、どうしたら良いのか分からないから、その手を引いて、歩くべき場所に連れて行って欲しいと思う。子どもの頃そうされていたように。伸ばされた手が幾ら不条理だからといって、それに購う勇気はない。だけどそれで良かった。そのほうが何も考えなくて良くて、楽だったのだ。
(・・・疲れた・・・)
目を閉じたら見えてくる。遠く高く、手の届かない場所から、見下ろしている街の景色が。
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