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飛ぶ夢を暫く見ない Ⅳ

「染ちゃんおかえりぃ!」 「・・・た、ただいま・・・」 「心配してたんだよ!いやぁ、良かった、良かった!君が無事に戻ってきてくれて!」 「・・・無事・・・?無事って何だよ、ナツ」 「どこぞの狼さんに取って食われてるんじゃないかと・・・」 「ナツじゃないんだからそんな非常識なことしねぇよ」 「酷!今の割と酷い!」 扉が開いた瞬間、そこで待ち構えていたのではと思うほどのタイミングの良さで、夏衣の大袈裟すぎる出迎えを染は受けていた。そこでようやく外界を遮断するためにかけていた一禾に貰ったサングラスを外して、帽子も取った。ふうと息を吐く。帰って来られた、ひとりで行って、泣き言言わずに帰って来られた。そう考えると思わず頬が緩んでしまった。この間は女の子に腕を掴まれても何も思わなかったし、もしかしたら自分は意外に、思っている以上に進歩しているのかもしれない。そのことこそきちんと先生に話をしておくべきだったなと考えながら、それには少々口惜しく思った。 「なに、染ちゃん、ニヤニヤしちゃって」 「・・・あ、いや、別に」 「それに何これ、この変装グッズ!こんなのつけてたら染ちゃんの美貌が台無しじゃん!サングラスはカッコ良いけど!帽子も似合うけど!」 「・・・だ、だって・・・外で何か言われたら・・・イヤだし・・・」 「ふーん・・・」 「な、なに・・・」 「それって逆ナンされたらイヤだってこと?いやぁうちの若い者は、随分自意識が過剰気味のようだなぁ・・・?」 「・・・そ、そん・・・そん・・・!」 「京義起こしてこよー!」 「ちょ、ま、ナツ!」 言いたいことだけ勝手な口調でいつものように言い放つと、それでもう満足したのか、夏衣はくるりと体を翻すと、奇怪な笑い声を立てながら、2階へと続く階段を実に軽いステップで上っていった。タイミングが良過ぎると思っていたが、どうやら夏衣は京義を起こしに行く途中だったらしい。染は酷い言い草と誤解に弁解しようと思い、一瞬それを追いかけようとしたけれど、何だか途中で馬鹿らしくなって止めた。夏衣が話を聞いてくれないのは、良く考えればいつものことなのである。 (俺・・・ここに来てホントに良かったのか・・・不安) 江崎がそう思ったのも、納得がいく。 談話室の扉を開けると、紅夜がひとりソファーに座って、テレビを見ていた。もうすぐ夕食だというのに、何故かそこにいつもなら居るはずの一禾の姿はなく、何やら美味しそうな匂いだけが無人のキッチンから漂い、立ち込めている。不思議に思いながら染は後ろ手で扉を閉めて、いつもよりがらんとした談話室に踏み込んだ。紅夜は帰って来た染を気遣っているのか、固そうなニュース番組に合わせていたチャンネルをぱちぱちと何度か変えて、結局コマーシャルをしている画面で手を止めた。それにしてももうすぐ夕食の時間だというのに、夏衣の言動から推測するに、京義はまだ眠っているのか。 「あぁ、染さん、おかえりなさい」 「ただいま・・・一禾いねぇの?珍しいな」 「うん、ご飯だけ作ってどこか行ったみたいやで」 「・・・ふーん、こんな時間に?」 「また女の子やろか、体が何個あっても足りひんなぁ」 「・・・」 「染さん?」 「・・・」 「どうしたん?」 それに黙ったまま、染は紅夜の隣にどさりと腰を降ろした。紅夜が自棄に心配そうな声を出して、こちらを伺うような表情で顔を覗き込んでくる。それが特別気にならなかったわけではないが、染の頭の中は全く別のことで支配されていた。全く今日は色んなことが起こる日だ。こんなに一度に起こると、一体何をしていたのか、しなければならないのか、分からなくなる。ぼんやりとしはじめた頭でそれを考える。今更のようだが自棄に体は重く感じて、何だかとても疲れていた。 「・・・怒ってる・・・ん?」 「・・・え?」 「ご、御免。そういうつもりやない・・・ねん」 「そういうって・・・」 「ご、御免な。一禾さんは女の子とデートしてナンボみたいなところあるしな!」 何故自分に謝るのだろうとぼんやりした頭のまま、必死で言い訳を考える紅夜の横顔を見ていた。そんなことをしているうちに紅夜の話がどんどんと遠ざかって行って、ただその口が開いたり閉まったりするのをついには眺めているだけになった。本当のこというと、ただ心細かっただけなのかもしれない。無性に一禾の顔が見たかった。頭を撫でて、優しい言葉を掛けて欲しかった。でも、帰って来たばかりの談話室に一禾が居なくて少しほっとしている自分も居る。どちらが本当で、どちらが偽者なのか、結局染には分からないままだ。そしてそれに白黒つけるつもりが自分にないことも良く分かっていた。 「そ、染さん・・・?」 「・・・疲れた」 「え・・・?」 「・・・疲れた・・・」 「え、ちょ、うわ・・・!」 頭を撫でて、ただ優しい言葉をかけて欲しい。そんなことを思うなんて、まだ思っているなんて、言ったら一禾は笑うだろうか、それとも呆れるだろうか。呆れて、自分のことを諭したように何か言うのだろうか。笑って、頭を撫でてくれたら良いのに。でもそれが確かに、自分の知っている一禾らしいのかもしれない。 「・・・そ、め・・・さん?」 疲れたと言って紅夜のほうに凭れかかってきた染は、その目を閉じて紅夜の膝の上で酷く穏やかな顔をして眠っている。それはいつも見ている顔なのに、染の悪い癖も沢山知っているのに、目を閉じて意識をこちらに預けて眠るその姿はやはり、同じ人間とは思えない精巧な創りをしているのだ。紅夜はそれを、殆ど言葉を失って見ていた。薇の切れた人形みたいだ、誰かの手を加えなければきっとこんな美しい形を留めておくことは出来ない、出来はしない。 (・・・やっぱ・・・染さん・・・綺麗な人・・・) それ以上の感想なんてそこにはなくても構わない気がしている。それだけで充分染という人間を表す記号になっている気がする。それだけの男だと思っているわけではないが、染に関しては余りにもその認識が先行し過ぎるほど前に立っているところがある。それは染にとって決して良いことではないのかもしれないが、脳はそんなこと無視したまま勝手に思ってしまう。 (・・・なんて綺麗な人・・・) 触ったら壊れてしまいそうだ。そんなバランスの上に成り立っている危なげな生き物、自分とは違う。紅夜はその時知らなかった。何も知らないで、染の白い頬を眺めていた。何も知らないから、それ以上の感想は持たずにそれを見ていられたのだ。

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