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飛ぶ夢を暫く見ない Ⅵ
目を開けるとそこには必死な一禾が居た。いつの間に帰って来たのだろう。一禾の細い割にちゃんと筋肉のついている腕が染の肩を掴んでいた。一禾の顔を見て、何だかとても安心した。一禾の様子は変だったけれど、何かにつけてその美しい顔を苦くしているのはいつものことだった。一禾が何か忌々しく呟きながら立ち上がって、距離が出来た。夏衣が笑っているのが見えたから、きっとまたふたりで下らないことを言い争っているのだろうと、染はぼんやりとそれを見上げていた。いつか、いつかと繰り返し言っていた。そのいつかがいつ来るのか分からなくて、その正体の掴めないいつかにいつも震えて怯えていた。思わず手を伸ばして、一禾の腕を掴んだ。ここに居る、まだ。まだいつかは来ていない。
「・・・どうしたの?染ちゃん」
「・・・なに?」
繰り返し、繰り返し、それをまるで望んでいるように、怯えきっていたのに、望んでいるように。その時が来ても、心が負けてしまわないように。心がぽきりと折れてしまわないように。まるで自分に暗示をかけるみたいな作業。途方もなくて終わりのない、思えばそれは孤独な作業だった。
思わず一禾の腕掴んだ染を見て、一禾の目が驚いたように広がった後は、いつものように優しく弧を描いた。そんな一禾を見ていると、自分の考えていることはまるで現実とは程遠いただの被害妄想で、一禾は永遠にこうして手を伸ばせば掴めるところで自分を待っていてくれるのではないだろうかと、愚かな錯覚に陥りそうになって染は慌てる。優しかったら優しかっただけ、苦しくなるのを一禾は知らない。手を伸ばせば伸ばすだけ、離れていくのを一禾は知らない。知らないままで良いのだ、このままで充分で、きっとそれ以上を望んだら、今以上の幸せというやつはここに居てくれないだろうから。
「ウチの中でいちゃいちゃするの禁止!」
「え?」
「・・・は?」
「ほら!離れて!染ちゃん眠いんだったら俺が添い寝してあげるね?」
「は?」
「そんなに眠りたいんだったら永眠させてやろうか・・・?」
「いやん、一禾。ほんの冗談だって!顔が怖いぞ!」
いつもの調子の夏衣に、眉を吊り上げて一禾は口元だけを歪めている。夏衣によって無理矢理に裂かれた間は酷く遠いような気がしたけれど、染はもうそれに手を伸ばすのは止めにしていた。もうそれに不思議と虚しく思わなかったし、それよりも起き抜けの頭はぼんやりしており、目の前のことについて行けなくなってきている。
「染さん大丈夫?疲れたん?」
「・・・あぁ、・・・うん、ちょっと」
「せやったらホントに寝たほうがええんちゃうの?部屋帰ってさ」
「・・・うん」
「恥ずかしがらないでホラ染ちゃん!俺の胸に飛び込んでお・い・で!」
「まだ言ってるのかよ!色魔!」
外は怖い。まだ怖い。何時間もひとりで居ると、多分倒れて動けなくなるだろうことは想像に難くない。中に居るほうが安全で、安心で、安息だ。でもそれで本当に良いのかと聞かれて、頭では分かっていても、望まれた結果を染は上手に弾き出すことが、残念ながらまだ出来なかった。頭で理解出来るほど、外は甘くはなかった。少なくとも染にとっては。
「・・・疲れた、けど」
「・・・え?」
「また、行ってみるよ、ひとりで」
「・・・うん。でも、無理はせんでな?ちょっとずつでええやん」
「・・・」
「それに、ひとりやなくたって、皆と一緒やったって、ええやん。それにそのほうが、もっとずっと楽しいで」
紅夜がそう言って穏やかに笑うのに、染はただ頷いた。人の波の中に長時間ひとりで立っていたせいだろうか、体は随分と疲れていたし、眩暈がして、頭痛がして、吐き気もしていた。だけど、とても嬉しかった。誰のために頑張ったわけじゃない、褒めて欲しかったわけじゃない。自分のため、他人のためなんて器用なことなんて永遠に出来やしないから、一禾みたいにはなれないから、いやなれなくても構わないから。自分のことだけで精一杯なんて言ったら、笑われそうだけどそれ以上の言葉もなく。
「・・・うん」
頭を撫でて欲しい。頑張ったねって褒めて欲しい。扉を閉めて耳を塞いでしまった、幼き日の自分に。
「なーんだ、変な時間に出かけてると思ったらこれ買ってきたの?」
「うん、そう。発売日今日だったからね」
「すっごいやん、これ。表紙氷川了以やで?」
「結構載ってるもんだねぇ」
染は3階で眠っているのだろう、今頃。長い手足を丸めて猫みたいに、眠っているのだろう。発売されたばかりの『オペラ』のページを捲ると、そこで染は笑っている。完璧なまでの表情だった。白い肌に真っ黒の髪、異国を感じさせる青い瞳を縁取る長い睫毛。そこで笑っている染は、誰よりも嬉しそうで、誰よりも楽しそうだ。これを撮って帰ってくる間にあんなにぐちゃぐちゃに泣いたなんて、誰も分かりっこないだろう。
「・・・しかし、こうして見るとますます圧巻だね」
「せやな・・・ホンマにどのモデルさんよりもモデルさんみたいや・・・」
「・・・でもなんで染ちゃん笑ってるんだろう・・・」
「そうだね、モデルってもっとこうカッコつけてるもんじゃないの?」
「それは偏見やろ。でもなんかこれもええやん」
「・・・まぁ」
「・・・」
「なんかホンマに、幸せそうで、ええやん」
「すっごく泣いてたけどね!」
「ナツさんそれは言わん約束やろ・・・」
幸せ。染の幸せとは一体、何だろう。誰にも会わない部屋の中で、丸くなっていることだろうか。開けた窓からただ空を見ていることだろうか。それが本当に幸せで、染の一番したいことなのだろうか。分からなかった。雑誌の中で染は見たこともないような顔で笑っているから余計に。
「・・・」
「こんなに載るなんて聞いてないよ、そういう契約だったの?」
「・・・案外、アイツにはこういうの向いてるんじゃねぇの」
「え?」
「そうだねー、染ちゃんが役所勤めと考えられないし」
「確かに、アレで家にずっと篭ってんのは勿体無いよな」
「・・・」
「でも本人は嫌がりそう」
「引き篭もりやからなー」
見られるために生まれてきたような、姿。考えたことがなかった、そんなことは微塵にも。きっと染だって同じように思うのだろう。だって、考えたことがなかった。幸せと同じように。この虚無感は一体何だろうと、一禾は不意に寂しくなった。
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