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飛ぶ夢を暫く見ない Ⅶ

空を見ていた、そう、昔から。 何を見ているのかと聞いたら、大体は空だと言っていた。好きなのかと聞いたら、きょとんとした顔で見上げられた。まるで好きとはどういうことか、分かっていないような顔だった。何を言っても余り反応のない子どもで、傷だらけだったけれど、その傷でさえとても大事そうに抱えていた。きっとそれに誰かが手を触れることで、持って行ってしまうと思っていたのだろう。余り鋭いほうではなかったけれど、染は自分に残されるものがその傷跡だけだと、もしかしたら勘付いていたのかもしれない。結局染は誰も恨まないし、誰も憎まなかった。その分だけ外に向けるはずだった爪を、自らの胸に深く突き刺して満足している。誰かを傷付けるくらいなら自分が傷付いた方がマシだと、半ば本気で思っているのかもしれない。痛いのは嫌いでいつも泣いてばかりいるくせに、そういうところだけ変に強情で、そういう背中や仕草を知っている気がした。 (・・・僕はあの子を愛しているのかもしれないな) どうしたら良いか分からないと、泣くように言った染のことを。 「でもね、先生」 「ん?」 「良いことも、あるんだ。沢山」 「・・・そう」 「見なくなった、夢」 「夢?・・・あぁ、あの夢か」 「うん、最近、見てない」 そう言うと染は、窓の方に目を向けた。青く光る空を映したように、染の瞳は不思議に青い。昔はあの暗い部屋の中で、目を開けて目を閉じてよく見ていた。コンクリートの建物、その上に立っている自分。随分と地上は遠くて、風が下から吹き上げてくる。随分と高いのに、不思議に怖いとは思わない。上を見上げるとそこには青と白のコントラストの美しい空がどこまでも広がっていて、眩しくて目を閉じる。落ちる夢だ。高層ビルの上から落ちる夢、だけどゆっくりとしたスピードで落下する自分、待っても待ってもぐしゃりという感覚は届かない。まるで飛んでいるようだった。確実に落ちているのに。 「・・・幾ら待っても地上に着かないんだ、着かない。その前に目が覚める」 「・・・」 「目が覚めるといつも、泣いてる」 「・・・うん、覚えているよ。染はよくその話をしてくれた」 「気味が悪くってさ、何度も同じ夢を見るから」 「あまり気持ちのいい夢でもないからね」 「・・・うん」 目を閉じるのが怖かった。また見てしまうのが怖かった。訳も分からず泣いている自分自身も怖かった。でもそのうちにそれは迫って来て、いつ頃からか目を開けてでも見るようになった。怖かった。窓を開けて空を見て、そのまま自分が落ちていく。夢か現実か分からぬままに。だけど染は窓を開けていた。窓を開けてそこから空を見ることは止めなかった。それだけが自分の世界だと信じ切っていたからだ。その昔、暗い部屋の中で膝を丸めて泣いていることしかなかった、窓を開けてその眩しさに食い殺されるならそれでも良いと、幼き日の自分はもしかしたらそんな自暴自棄なことを思っていたのかもしれない。 「・・・これって何だろう、分からないけど、でも良いことなんじゃないかって、思う」 「うん、僕もそう思うよ」 江崎がゆっくりとそれに同意すると、染は少し恥ずかしそうに笑って俯いた。何度も思ったけれど、思っただけでいつも勇気がなかった。ぐしゃりと落ちるその時を、実は待っていたのかもしれないとすら思う。落ちていく自分が地上に着いた時、もしかしたら何か変わるのではないかと思って、ゆっくり流れていくビルのガラスを見ていた。結局染が見た中では一度も地上に辿り着くことは出来なかったけれど。俯いたままの染の青い目の周りが、不思議に赤く色付きはじめる。 「待っているのかい、染」 「・・・うん」 「そう」 「・・・途方も無い、かな」 「途方も無い、ね。それでも良いんだろう?」 「・・・」 「それでも、待っているつもりなんだろう?」 そういう方法で愛した人が居た。途方も無いと自分でも思う。だけどそれしか方法を知らなかったから。染はただ待っている。いつかその時が来るのを信じてただ待っている。心痛しながら学校へ行って、涙しながら帰って来ても、染は開けた窓からもう落ちる夢を見ることはなかったし、そんなことを望むこともなくなっていた。もう一度どうしても会いたかったけれど、会いに行く勇気なんて全くなかったから、ただ染は待っていた。目の前のことを一生懸命繋げたら、きっといつか笑顔で迎えに来てくれる。盲目的に信じ切って、そして染は待っているのだ。ただひとりの愛した人の腕を。 「・・・何やってんの?」 翌日染が談話室に降りて行くと、朝だというのにそこは随分と騒々しかった。また夏衣と一禾が喧嘩でもしているのかと思ったが、聞こえてくる声の雰囲気からしてそうでもないことはすぐに分かった。何をしているのかと紅夜の後ろから覗き込むと、テーブルの上に昨日一禾が買って来た染の載っている雑誌が置いてあり、それを皆で囲ってはあぁでもない、こうでもないとまだ言い合っているのだった。京義だけは眠そうな目をして、ソファーに座って興味無さそうにしては居たが。 「あぁ、染ちゃんおはよう。昨日の残りあるよ」 「俺はこっちのがええと思う。これにしようや」 「いいや、この座ってるやつの方が良いって涼しげだし!」 「・・・な、ちょっと、皆・・・」 「ほらぁ、折角だからさ、どれか引き伸ばして談話室に飾ろうって話に・・・」 「飾る?つか引き伸ばすって何を・・・」 「あぁ!染さんまだ見てへんかった?ほら、これ」 「可愛く写ってるよー、ねー?」 「・・・!!」 染自身、そんなことがあったこと自体が遠い昔の話のように思えていた。紅夜と夏衣が嬉しそうに広げるその雑誌の中で、自分だって見たこともない顔で微笑んでいるのを見せられ、ようやく記憶が回復していく。染はそれを視界におさめ、声にならない悲鳴を上げた。 「・・・っ・・・!!?」 「なー、一禾さんはどれがええと思う?」 「俺的にはこれかな」 「それも可愛いねー・・・良いんじゃない?」 「・・・」 「・・・い、いち・・・」 「染ちゃんはどれが良い?」 にこり、と一禾に笑いかけられ、ふうと意識が遠のくのが分かった。

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