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夕立のある風景
夏が終わりを迎えようとしている。
「わー・・・超雨降ってる・・・」
「染ちゃん外に出ちゃ駄目だよー。こんな天気の悪い日は、良くない人に捕まっちゃうからね」
「え?そうなの?」
「昔からそう言うでしょ?」
「聞いたことないけどなー・・・」
見上げる空はどんよりと曇っていて、地面に無数の糸を垂らしている。ガラスを叩く雨の勢いはそう強くはないけれど、それに相反するようにコンクリートの道を雨が激しく流れていくのが見えた。雨が降ることは決して珍しいことではなかったけれど、こんな風に音の無い割に雨粒の大きい雨が降ることは稀だった。染は暫くそれをじっと見上げていたが、流石に飽きたのか戻って来て定位置であるソファーに寝転がった。
「良くない人に捕まって、どこかに連れて行かれるんだってさ」
「・・・へー・・・そりゃ凄いな」
「俺は昔からそう脅されていたけどね」
「・・・ナツは雨が嫌いなの?」
「好きだよ」
即答だった。夏衣は目を伏せたまま、手元の本を捲りながらそう答えた。夏衣のそれは随分と断定的で、だからこそ余計に意味深だった。染は首をぐるりと回して、テーブルに座っている夏衣を見上げた。談話室の中は何故か電気が付いていないせいで、昼間だというのに外が暗いせいかいつもより薄暗く、夏衣の横顔もどこか翳っているように見える。口を開けると引っ張られて顎が痛く、染は首を元に戻した。雷が遠くで鳴って、少し遅れて窓の外が光る。それとほぼ同時に、どこかに落ちたような音がするのが聞こえる。
「・・・何で?」
「全部濡れて、流れて、清潔な感じがするじゃない?」
「・・・そうかなー・・・」
「まぁ実際、都会に降る雨なんて、汚いものなんだけどさ」
「え、そうなの?」
「・・・そうだよ、知らないの、大学生」
「知らないよ、俺そっち専門じゃないもん」
「そうじゃなくても常識でしょ」
「・・・そうかな」
いかにも不服そうに染が唇を尖らせている。夏衣はそれを知っているのに、酷く穏やかな顔をして微笑んだ。夏衣が雨を好きだとは思えなかった。その口調もそうだったけれど、雨の日の夏衣はどこか気だるく、体調の悪いような青い顔をしている。今日もそうだ。覚えがないが、きっと以前もそうだったのだろう。しかしそれに増して夏衣の顔は自棄に血が引き切った、白いというよりはむしろ青い色をしている。その中にぼんやりと、ぼんやりと生気を放って夏衣はテーブルに座っている。本当にただそこにいるだけの夏衣の発する音は、成人男性のものより若干高めの棘のないアルトに聞こえた。
「清潔な感じ・・・かぁ」
「許される気がするでしょ」
「・・・許される?」
「何もかも流されて、許される気がするでしょ」
「・・・」
「・・・詰まらない?俺の話」
「ううん、でも何かそういうの、ナツらしくないよ」
「・・・そっか、そうだね」
囚われていたかった。夏衣は笑って、また本に目を戻した。単調なその繰り返しに、囚われていたかった。これ以上のことなんて、ここから先には何も起こらないと信じていたかった。それが崩れる日のことなんて、一度も想像しなかった。変わることを恐れていたのは、変化の向こうの結果が恐ろしかったからで。それに安易な期待をしてしまう自分というものが、酷く無様で惨めだったからだった。変わって今が可笑しくなってしまうくらいなら、少々のことは下唇を噛みさえすれば我慢出来た。その痛み以上に夏衣の心にも体にも訴えるものなんて、有りはしなかった。そう信じてただ目を瞑っていることで、夏衣は自分を取り巻いているらしい周りの全ての私欲から逃れているつもりだった。窓の外で雷が鳴って、薄暗い部屋に一瞬光が差す。染はそれを濡れた青い目でじっと見ていた。その音にも光にも全く微動にしない夏衣の横顔を、じっと見ていた。夏衣らしいとは何だろうか、らしくないとは一体何だろうか。自分はこの男の一体どんな側面を知っていて、それから一体どんな像を結ばせてそれに名前をつけて満足しているのだろうか。そしてそれはどの程度、本人と誤差があるのだろうか。
「どこかに連れて行かれたかった?」
「・・・え?」
「何か、そういう意味でしょ」
「・・・」
「違う?」
「・・・分からない、でも、確かにそうかな」
良くない人が迎えに来るのを、迎えに来てくれるのを、そこでずっと黙って俯いて、待っていたのかもしれない。本当は誰でも良かったのだ。迎えに来てくれるなら誰でも、連れ出してくれるのならば誰でも。逃げ出す勇気なんてなかったから、泣き出す勇気なんてなかったから。雨が降ればそれを期待して、窓の外にそれを裏切られて、また待っていたのかもしれない。
「嫌なことでもあったわけ?」
「・・・嫌な事?」
「そんなこと考えるなんて」
「染ちゃんは、思わなかった?」
「・・・俺?」
「思ったでしょう?染ちゃんだって」
「・・・うー、・・・うーん・・・」
「今だって、思ってるでしょ」
唐突に苛立ったような夏衣の口調に、染はそれ以上のことを言うのを躊躇った。振り上げた拳をどうして良いのか分からない。喧嘩なんかしたことがないだろう、仕様のない大人の腕を。図星だったのか、見当違いだったのか、分からなかった。きつく歪められた顔は、怒っているというよりは、戸惑っている表情だった。
「ごめん、別にそういうんじゃ・・・」
「・・・」
「・・・ナツ」
「・・・誰も迎えに来てくれなかった、良い人も、良くない人も」
「・・・」
「待ってたのになぁ・・・」
窓の外で雷が光って、また一瞬だけ、夏衣の顔の凹凸が薄暗がりに映った。何も言えなかった。染は黙って、それを見ていた。染だってずっと待っていたのかもしれない。鍵を掛けた暗い部屋に膝を抱えて蹲って、誰かがここから出してくれるのを、安易な期待を胸に抱いて待っていたのかもしれない。
「・・・夕立だよ、すぐに止む」
「・・・」
「でも今頃、紅夜くんと京義は酷い目に遭っているだろうね」
「・・・うん」
今だってこうして、きっと待っている。
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