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デネブの思惑

「何見てるの」 不意にそう言われて、一禾は首を回した。後ろにはこの部屋の主である瑞樹が、何とも大胆な姿で座っている。一禾はそれに少し呆れたような表情を浮かべたが、特別窘めるようなことは何も言わずに窓の外に目を戻した。彼女に関して言えば、そういうことが殆ど無意味であるということを、一禾は彼女との付き合いの中で良く分かっているのだった。窓の外は真っ暗な完全な闇で、雨が降っている音だけが静か過ぎる夜に自棄に響いて聞こえる。一禾のそんな態度を不服に思ったのか、瑞樹は一禾の座っているベッドまでやって来ると、その腕を一禾の首に回した。生乾きの髪の毛を一禾の背中に押し付けるようにして、もう一度言う。 「何見てるの、一禾」 「別に、星だよ。星」 「嘘、星なんて見えてないもの」 適当な一禾の返答に、瑞樹は一禾の首を殆ど絞めたまま、身を乗り出して窓の外を見ようとする。今は暗闇で良く分からないが、この雨の降りようだ。きっと空は分厚い雨雲で覆われていることだろう。そうすればその奥に輝く星など、見ることは出来ないことくらい双方とも承知の上だった。 「そうかなぁ、まぁ今日は雨だからなぁ」 「それより何でつまらない顔したの」 「瑞樹ちゃん。俺が言うのも変な話だけど、そういう格好は頂けないと思うよ」 「どうして?私が私の部屋でどんな格好してようが、私の勝手でしょ」 「そうだね、全くです」 「一禾怒ってるの」 「別に、星が見えないからなぁ」 「どうして?ロマンチストだから?」 「俺にロマンチストの要素、どうやったら探せるの」 「・・・何か怒ってる」 「違うよ、どうしてそういう答えになるのか聞いてるの」 「それって一禾の他に付き合ってる男が居るってこと?」 「話が見えなくなるからもういいよ、瑞樹ちゃん」 「話は元々目に見えるものなんかじゃないわ」 「そうだね、全くだ」 瑞樹の的外れたような、それなのにどこか本質を示しているような返答に一禾は溜め息を吐いて、外を見上げた。黒い空から雨が降っている。天蓋の付いたピンク色のシーツが掛かったベッドの上は、決して居心地が良い訳ではなかったけれど、一禾は時々ここにやって来て、瑞樹の頭を撫でる。キスもするし時々はそれ以上のこともするけれど、やっぱり彼女ともただそれだけだ。一禾の中で女の子の扱いというのは、そういうものを決して逸脱しないのだった。しかし、一禾自身はそれが自分の良いところだとすら思っている。 「君と話すと頭が痛い」 「頭痛薬なら持っているわ」 「そうか、有難う。それは助かるよ」 「分かった。持ってくるからね」 「・・・うん」 彼女は不意に一禾から離れて、扉を押し、部屋を出て行った。一禾は静かになった部屋の中を見回した。床には彼女のものである名前の分からないぬいぐるみが散乱しているが、一禾はそれを片付けようとは思わない。モノは散乱しているが、部屋の中は決して汚いわけでは無い。この感じは業者が入っているのだと一禾は大体の勘で知っている。その日が来ればまたモノはあるべき場所に戻されるのだ。彼女では無い他人の手によって。 「一禾!」 「あぁ、うん。悪いんだけど」 「え、どうしたの?」 「俺、お風呂入るね」 「お風呂入るの?」 「うん。でも瑞樹ちゃんは今さっき入ったからもう良いよね」 「言ってくれれば良かったのに。そうしたら一緒に入ったのに」 「あぁ、うん。御免ね、今思いついたんだ」 「泊まるの?」 「うん、だって、今日雨だし」 「雨だから帰るのかと思った。良かった」 「・・・どうして」 「え?」 瑞樹は満面の笑みでそう聞き返した。どうしてともう一度言いそうになって、一禾は面倒だなと思い止めた。車に乗るためには少し濡れなければならない。東京の汚い雨に濡れるなんて御免だと一禾は思っている。会話は途中だったが扉を閉めて、一禾は軽く溜め息を吐いた。 (やだなぁ、ストレス発散なのにさ。ただの) 風呂場に続く扉を開けて、またげんなりする。瑞樹の発言は時々支離滅裂だが、それはそれで彼女なりにルールがあることなのだろうと思う。ただそのルールを一禾は理解しようとはしないし、多分出来ない。げんなりしたまま服を脱いだ。何だか色々面倒臭い。でも彼女は可愛いと思うし、またここには来るのだろうと思う。何のためにかと聞かれたらそれは答えられないが、今までもこれからも誰も一禾にそんなことは言わない。 (ここでストレス感じてどうすんだよ、俺ぇ) 雨だから帰るのかと思った、と瑞樹は言った。温い風呂の中で、一禾は考えていた。閉まっているが曇りガラスの窓が風呂には付いていて、外は真っ黒に塗り潰したような色をしている。言葉に深い意味はきっと無い。あっては困るからだ。あくまでも楽観的で居てくれなければ困る。 風呂から上がって、髪を適当にタオルで拭きながら一禾は寝室に戻った。酷く眠い気がしていたが、このまま眠ってしまっては彼女に失礼だろうともどこかで思っていた。瑞樹はベッドの上に座って、先ほど一禾がしていたように窓の外をじっと見ていた。 「何見てるの」 声をかけると、一拍置いて彼女は振り返り、そうして少し笑った。 「星」 「星は見えないでしょ。雨降ってるし」 「ねぇ、止むかな。雨」 「止んでも見えないよ」 「雨が止んだら一禾は帰るの?」 「うん、帰る」 「・・・」 「でもまた来るよ。開けてくれる?」 彼女は答えなかった。にこりと笑ってそのまま、もう一度暗い窓の外に目を向けた。言葉の力は信じていない。約束も見えないから意味がない。形になって掴めるものでなければ、繋げておけないと思っている。どうすればそれが形になるのか、見え易いものになるのかなんて、誰も分からない。一禾は瑞樹の隣に腰を降ろして、彼女と同じように真っ暗な空を見上げた。そこに星を探すことより、少しは簡単であれば良いのに。

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