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冷たい土に降る
雨が降っている。しかし良く降っているのだ。雨は地面を叩きつけ、そのしっとりとした空気が、足元から這い上がってくるのが分かるくらいに。東京は殆どコンクリートとアスファルトで覆われた土地だったから、その水はどこにも吸い込まれるわけでなく、ただ人工的なその上を行き着くところを探して彷徨い歩いているような気がする。何だか寂しくなってしまうと、紅夜はぼんやり考える。下駄箱を出たところまでは屋根があるはずなのに、立っている場所のコンクリートはそれとは無関係に少し濡れている気がして、その無機質な灰色から水でも染み出しているのではないかと思った。珍しく覚醒している京義は側に立っていて、ただ雨の上がる遠くを眺めている。生徒の出て行ってしまった雰囲気のある校舎の中に、誰も居ないわけでは決してないのに、何だかそれは無意味な物悲しさを放っている。雨の降る音だけが聞こえて、それを除けば辺りは無音だったようにも思う。
「・・・止まへんなぁ」
「夕立だろ、すぐ止む」
「・・・そうかなぁ、それにしては凄い勢いやけど・・・」
殆ど独り言のように呟かれた紅夜のそれに、いつものことではあったが京義は答えなかった。こんなことならもう少しピアノを弾いていればよかったと思うが、1階まで降りて来てしまった今、また5階に戻るのは面倒臭い。それにしても5階から見る風景と1階から見る様相では、雨の形も随分と違って見える。黙ってしまった京義にちらりと視線をやってみると、京義も何だか全体的に湿っている雰囲気を持っている。髪の色もいつもより黒っぽく見えて、何だか重そうだ。しかしそれとは逆に先刻までピアノを触っていた指は先端まで真っ白く、まるで血なんか通っていないようである。雨の降る日はそうだ。余計にそう思う。
「帰る?」
「・・・どうやって」
「でも・・・ずっとここにも居られへんやろ・・・」
「傘もないのに、走ってか?」
「・・・駅までやん・・・」
「一禾に電話する」
「一禾さんに?何で」
「車出して、迎えに来て貰えばいい」
嫌な予感はしたが、それ以上は何も言わなかった。紅夜は黙って俯いたまま、やはりどう考えても濡れているようにしか思えないコンクリートを眺めていた。誰も居ないような学校は、その巨大さも相まってか異様な静けさを主張してくる。こうしてここで暗い空を見ながら時間を潰していると、それが時々恐怖に変わるのも、何だか分かる気がするのだ。薄暗がりがそこで口を開けて待っているような、入ったらなぜかその異様な力で二度とは出てこられないような気がして、何だか酷く確信的に恐ろしいと思うのだ。
「・・・」
「・・・」
雨の音以外は何も聞こえなかったあたりに、ぱちんと隣で京義が銀色の携帯を折り畳む音が響いた。見上げるといつも無表情な京義の顔には、隠し切れない不快感が滲み出ていた。紅夜はそれを見ながら、やれやれと首を振った。まぁ、そんなものなのである。特に一禾は捕まり難い。どうせならホテルに居る夏衣か染にしたら良いのにと紅夜は思うが、染はきっと雨が降っているなどの理由を抜きにしても、無条件で外に出るのを渋ると思うし、夏衣は夏衣で気分屋なところが少しあるから、意外と距離のある学校まで来てくれる可能性は低いだろう。それに京義がなぜ一禾にしたのか何となく、紅夜には分かるのである。
「女が出た」
「・・・あぁ、そう」
「気分悪い」
「・・・そりゃ、京義が悪いわ。一禾さんの携帯なんて、一禾さんのであってないようなもんやん」
それにしても人のものに、一応は人のものに勝手に出るような女の子の神経を疑うが、それを意外にも気にしていない一禾もそれを凌ぐ図太い神経の持ち主といっても良いだろう。
「染さんかナツさんにしたら」
「どっちも嫌いだ」
「・・・好き嫌いゆうてたら帰られへんで」
窘めるような紅夜の口調に、京義はその眉間の皺を一層深める。
「走ろか」
殆ど決定に近い声で紅夜が言いながら、ぱんぱんと辺りの湿気に当てられて湿っているような制服を乾かす意味で叩いた。これから濡れることを考えたら、そんなことはもしかしたら無意味なのかもしれないが。しかし懲りずに隣でぱちりと京義がまたその銀色を開いた。その中に登録されている人数なんて数えるくらいで、それで別に困っていないのだから良いじゃないかというのが京義の持論である。メモリを検索しながら夏衣か染で迷って、どうせホテルに居るのだからと殆ど使わないホテルの電話番号に決めた。
「あれ、電話するん?」
「出た方に頼めば良い」
「ふーん・・・」
結局電話に出たのは夏衣だった。染がホテルの電話に出るはずがないのを、紅夜はその時思い出した。夏衣の携帯にあえてかけないのは京義の意地だったりするのかと、また夏衣がどうでも良いことをその電話口で言っているらしく、そのせいなのか先刻の一禾の件を引き摺っているのか、少し苛立っている横顔を見上げた。ぱちりとまたそれ特有の音を立てて京義が携帯を畳んで、今度は鞄の中に入れた。
「・・・どうって?」
「面倒だって、でも来るって」
「・・・良かったやん」
「お前は走って帰るんだろ」
「何やそれ、酷いな。仲間割れやん」
「走って帰れよ」
真顔で言うのだから頂けない。こういう時の京義の発言は、本気なのか冗談なのか分からないから、仕様に困っている。けれど紅夜の知っている京義は、往々に冗談など言えるような器用な性格はしていない。だからといってそれを真摯に受け止めるわけにもいかずに、紅夜は曖昧に笑って空を見上げた。空はただ黒くて重い雨雲が埋め尽くしており、それには余計に果てがないように思えた。
「なぁ」
「・・・」
「京義って意外にええとこの子なん?」
「・・・何で」
「雨の時は傘無くても、普通走って帰るやろ」
「・・・」
「だって俺そうやったもん」
「・・・だからお前は走って帰れよ」
「いや、そうやなくてさ。それはまた違うやん」
「何が違うんだよ」
「ナツさんやって、二人で居らんと吃驚するやん」
その間にも雨は一層勢いを強めている。それが一時の気の迷いには思えなくて、止むようには見えないのだ、どうしても。しっとりと濡れている気がして、紅夜は髪に手をやった。湿ったコンクリートに座って、ここから一歩も動けないで、雨が上から下に落ちるのをただ見ている。それ以上何も話すことはなく、雨が降る音以外はそういえば無音だったような気もする。
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