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正解はひとつだけ Ⅰ

白い紙の前でだけ、平等に成り立っていたのだと思う。 シャーペンを置いて窓の外を眺める。大きい木に遮られてはっきりと、遠くまでは見えない。ひとつ深呼吸をしてそのまま、もう分かっていた。分かりきっていて今更だった。シャーペンが紙に擦れる音が聞こえる。教師が机の周りを巡回する足音が聞こえる。空調が空回りして、妙な音を立てている。夏はそこで終わって、まだそこに蹲っているのか。やけに外の日差しは眩しかった。 3日前から学校は始まっている。大学生は休みが多いせいで、まだ染と一禾はホテルに居たが、高校生はそうはいかない。授業のペースも時期元に戻るのだろう。紅夜は参考書と問題の書かれたプリントを鞄に仕舞うと、まだ涼しいままの教室を後にした。今日は休み明けのテストの日で、比較的早く帰ることが出来る。廊下に出るとテストの終った生徒が何人も連れ添って喋っているのが見えた。 「紅夜ー」 「?」 呼ばれて振り返ると、廊下の向こうで嵐が手を振っていた。紅夜を名前で呼ぶ生徒なんて限られている。嵐はテストが終わるとすぐに教室から出て行っていたが、鞄はそのままだったので、取りに戻ってきたのだろう。目の覚めるような金髪も、数えられない数のピアスも夏前に別れた時のままだった。もしかしたら少し悪化していたのかもしれない。嵐は気が付いていないようだったが、嵐が突然やって来たことによって、何人か廊下に出ていた生徒は露骨に嫌な顔をした。紅夜はそれに苦笑いをすると、手を振り返した。 「どこ行ってたん?」 「んん、まぁ、その辺?もう帰るところ?」 「・・・何で疑問系やねん」 「俺も帰るよ、ちょっと待って」 「・・・相変わらず人の話聞かん子やな・・・」 京義も嵐もどっちもどっちだと思った。二人で並んでいると結構圧巻なのである。紅夜は皆がそんな顔をする理由くらい分かっていたが、未だそれに納得するわけにはいかないでいた。京義も嵐もそんなことは気にしないから余計に。嵐は扉を開けっ放しにして、教室の中に入っていった。放り出したままだった鞄に適当に問題用紙を詰めているのが見える。そう言えば、京義はまた上だろうか。見えないことは分かっていたが、紅夜は窓を開けてそこから上を覗いた。白い壁が見えるだけで、外の空気は暑いだけだ。 「何やってんだよ、帰らねぇの」 「いや、京義上かなと思って」 「・・・薄野なら唯:(ユイ)ちゃんのところ」 「ゆいちゃん?」 「うん、そー。さっきまで居たし多分そこに居るんじゃね」 「・・・ゆ、唯ちゃんって誰やねん・・・カノジョ・・・?」 「何、お前唯ちゃん知らねーの」 「知らん!何やねん、京義!自分は女の子とか興味ないとかゆうてた癖に・・・!」 「違ぇよ。唯ちゃんは保険医。ほら下の、管理センターのひと」 「・・・保険医?」 「そ、ベッド借りてそこで寝てたけど」 「・・・」 「何お前その、あからさまにほっとした顔」 「し、してへん。してへんわ。別に!」 「あぁ、そ」 京義が音楽室に居ないのも珍しい話だった。なぜそれを嵐が知っているのかも分からなかったが、取り敢えず、紅夜は下に降りることにした。管理センターは名前ばかりの保健室という奴で、一階の下駄箱横に結構広いスペースを取って設置されている。 「・・・ってか、唯ちゃんって何やねん」 「え、名前じゃん、名前」 「いや、普通下の名前で呼ぶか・・・?」 「良いじゃん、可愛い名前なんだしさー、珍しいし。皆そう呼ぶぜ」 「そうやったんや・・・」 「まぁ男だし余計に、みたいな?」 「・・・男なん?唯ちゃんで?」 「おー、特に俺なんか世話になってるしなぁ」 「・・・なってそうやわ・・・」 嵐が無遠慮な造作で、がらりと管理センターの扉を開けた。向かいに窓ガラスがあって、教室と同じ様相で、それは順番通りに並んでいるようだった。白い薄いカーテンが引いてあって、部屋の中は思ったよりも明るくない。窓側に机がひとつ置いてあり、そこには乱雑にファイルだの本だのと積み上げられていた。 「唯ちゃーん」 「あ?・・・何だ、宮間か」 「薄野まだ寝てる?」 「なに、お前らそういう関係なのか?感心しないな」 「違ぇよ、紅夜が一緒に住んでんの、な?」 「・・・あ、あぁ、うん・・・」 「へぇ」 男、唯ちゃんと嵐が呼んで振り返った男は確かに男だった。背の高いすらりとした体に白衣を纏っていたものの、医者とは思えないほど若い。迷惑そうに顰められた眉、低音で温度を感じさせない声、鋭い目には銀色のフレーム眼鏡がかかっており、それは職業らしく彼を一層知性的に見せていた。紅夜は扉の前に立ったまま、思わず唯の顔を凝視してしまった。その顔には見覚えがあったのだ。どこかで会っている気がする。しかし唯のほうは全く紅夜には関心がないのか、へぇと答えただけで、机に座って乱雑になっていた資料を片付けだした。 「・・・あの」 「何だ?」 「どこかで、会いませんでした?」 「いや、会ってない。会っているはずがない」 「・・・いや、何か、そういう気がして・・・」 「気のせいだろ」 「・・・そうですか・・・」 唯は自棄にはっきりとした口調でそれに答え、そんなに資料を片付けるのが大切なのか、紅夜に視線もくれなかった。会った気がする。確かにそれは見覚えのある顔だった。でもどこで会ったのか思い出せない。しかしどうも見たことがあるような気がするのだ。その横顔とか、切れた目の辺りとか。紅夜は簡潔に切り捨てられたその言葉を反芻していたが、嵐に腕を引っ張られて我に返った。 「なに、知り合い?」 「・・・ううん、多分見間違いやわ」 「薄野寝てるってさ、どうする?」 「・・・うーん・・・」 言いながら、考えていた。正直京義のことなど、頭の隅に追いやってしまっていた。一体どこで会っているのだろう、一体いつ会っているのだろう、会っていないのだとしたら、この妙な気持ちは何なのだろう。どうして知っているのだろう。どうして知らないで居るのだろう。

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