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正解はひとつだけ Ⅱ
「知らねぇ」
「・・・そっか・・・」
そう京義に一喝されて、紅夜は肩を落とした。先刻ベッドから起き上がったばかりの京義は、眠そうに目を擦って欠伸を繰り返している。良い気分で眠っていたところだったのに、不用意に起こされたことを少し怒っているのか、口調にはいつもよりピリピリしたものが含まれていたが、京義がいつもの無表情だったので、生憎紅夜はその微弱な変化に気が付かなかった。
「多分見間違いだと思うけど」
「そう?・・・そうかなぁ・・・」
「だってさ、唯ちゃんって結構適当だけどマジ凄かったらしいよ」
「凄かったって?」
「・・・」
「結構デカイ大学病院に勤めてたんだって、ここからちょっと遠いけどな」
「へー・・・」
「・・・」
逆に嵐は元気そうに、何も入っていない鞄をぶらぶらさせながら、ホテルとは逆の方向を指差した。京義はただ欠伸を繰り返すばかりで、それにはきっと興味が無いのだろう、何も言わなかった。基本的に京義は外界との距離というものが、普通の人間よりも遠過ぎると平常から考えている。その興味ですら、一体何処に存在しているのか、未だその実態は掴めず不確かなままである。太陽はまだかなり高かったが、高ければ高いほど京義は眠たいのだろう。交差点は人が多くて、放っておくとすぐにぶつかるので、仕方なく紅夜は隣を歩く京義の腕を掴んだ。ふらふらと揺れて、京義は目を擦った。
「なぁ、嵐は何でそんな知ってんの」
「何でって、唯ちゃんが言うんだよ。まぁ、自慢だろ」
「へー・・・でもそれやったら余計に何で学校の保険医なんてしてるんやろ・・・」
「さぁ、セクハラとかで辞めさせられたんじゃねーの」
「・・・セクハラ・・・」
「・・・」
「っても、薄野危ねーな・・・ちゃんと目開いてんのか?」
「そない眠たいんやったらバイトも考えたらええのに・・・」
「・・・」
見かねた嵐までもが京義の腕を掴んで、京義は半ば引き摺られるようにして、人通りの多い道を覚束ない足取りで歩いていく。紅夜はいつも眠そうな京義を見ているが、今日はやけに酷い気がする。覗き込んだ顔は薄っすらと目が開いているだけで、特に表情らしいものは無かった。それにしてもと紅夜は片手で京義を支えながら、先刻妙な暗さの残るセンターで振り返った唯の顔を思い浮かべていた。思い出せば出すほど、それは感覚的に紅夜に訴えるものがあって、何だかそれが分からないから、余計に気になるのだった。
「俺こっちだけど、紅夜大丈夫か?」
「ええよ、ええよ。それよりありがとな」
「ん、まぁ。それは良いんだけどさ」
「じゃーな、また明日」
「おう」
「・・・」
2つ目の交差点で嵐と別れ、紅夜は一人京義を引っ張りながら駅に向かった。一緒に帰るようになってから分かったことだったが、嵐は結構学校の近くに住んでいるらしかった。こんな都心に住んでいるなんて、紅夜からしたら金持ち以外の何者でもない。そう考えてみると、見た目の割にはきちんとした常識を弁えている節が、思い出せる分に嵐には如何もあるのだった。あんな格好しているから誤解されがちだけれど、もしかしたら嵐は紅夜の想像の更にその奥に居るのかもしれない。紅夜は嵐が颯爽と渡って行った混雑する横断歩道の向こうを眺め、そんなことをぼんやり考えながら、鞄の中に埋もれてしまっている定期を片手で探した。
ホテルに帰るとすぐに、紅夜はもう殆ど眠っており、自分の足では立っていない京義を2階の京義の部屋に押し込んで、ようやく京義から解放された後、自分の部屋に戻ってほっと息を吐いた。あの様子ではもう明日の朝まで起きないだろう。京義を半ば引き摺るように連れ帰ったせいで、普段使わない筋肉を酷使した体が痛い。ベッドに鞄を投げ、続いて自分も飛び込んだ。
「・・・」
早く脱がないと制服が皺になってしまう。紅夜はぼんやりした頭で、ベッドに伏せったまま考える。自棄に眠たい。京義の眠気が移ってしまったようだ。のろのろと起き上がって、制服のボタンに手をかける。不意に夏衣が用意してくれた制服が、透明のビニールに包まれてクローゼットに下がっていた時のことを思い出した。頼りないかもしれないけれど、それは今も変わらず紅夜の一番大事なものだった。それはいつだって自分の居場所の象徴だった。学校に居れば、学校に居さえすれば、全てから逃れたような気になっていた。それは気のせいだったのかもしれないけれど、紅夜にとっては真実に違いなかった。
(阿呆らし)
確かに自分でも溜め息を吐いてしまうほど、馬鹿らしいことだった。紅夜は脱いだカッターシャツを丸め、スラックスだけクローゼットに仕舞うと、もう一度ベッドに戻った。鞄がその奥のほうで自分の声を手を待っているのが、目を瞑っていても感覚だけで分かる。実に忠実に、それは紅夜を突然裏切ったりしない。その他のどんなものが裏切ったとしても。目を開けて、眠いと思いながら黒光りするそれを眺めて、勉強しなければと思った。勉強していれば怖いことなど何も無かったから、何か不安に取り付かれそうになったら、ペンを握るのだ。それは魔法みたいに、時々紅夜を慰めてくれる。
「京義は?」
「何か寝てるみたいやねん」
「寝てるって、いつものことだろ?」
「うん、でも何か、今日酷そうやったから、そっとしといたほうがええかなって」
「・・・ふーん・・・じゃあちょっと様子だけ見てくるよ」
紅夜が案じたとおり、京義は夕食が始まるその時間になっても降りてこなかった。一禾は夕食をきちんと並べた手をエプロンで拭って、そう言い残すと談話室を出て行った。染はその隣でもう夕食に箸をつけている。紅夜たちが学校に行く直前に、また唐突に夏衣は実家に帰ると言い残し、姿を消してしまっていた。こうなると一ヶ月帰って来ないのは今までの様子を見れば分かること、紅夜はそれにもう疑問を持たなくても良くなっていた。
「なぁ、染さん」
「うーん?」
「今日な、俺知ってる人に会ってん」
「・・・うん?」
「多分会ったことあんねんな。でも何にも覚えてへんねん。名前聞いてもピンとこうへんし」
「へー・・・そういうことってあるもんなんだな」
「でも俺、結構記憶力には自信あるほうなんやけどなー・・・」
染に今日のことを掻い摘んで話しながら、紅夜は唯の面倒臭そうに歪められた顔を思い出した。医者ならどこかでかかったのかもしれない。でも東京の大学病院に厄介になったことなど、それこそ記憶に無いのである。どこで会ったのか、どうして覚えていないのか、紅夜はもやもやと考えながら、一禾の作った美味しい以外の何物でもない料理を口に運んでいた。
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