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正解はひとつだけ Ⅲ
翌日、けろんとした顔をして京義は珍しく朝から覚醒していた。一禾に弁当を持たせてもらって、いつものようにふたりしてホテルを後にする。その頃にはまだ、染は起きていないらしかった。大学生のふたりはまだ夏休みが続いていて、休日まで起きて弁当を作ってくれる一禾の背中に、紅夜は何と声をかけて良いのか分からなかった。緩やかな下り坂を降りながら、京義を殆ど担ぐように引き摺った昨日のことを思い出して、紅夜は文句のひとつでも言ってやろうと思って振り返った。
「昨日はどうしてん」
「・・・昨日?」
「そや。何であんなに眠そうやったん」
「・・・昨日俺、学校行ってないし」
「行ってるわ!俺が引き摺って行ったわ!」
「・・・そうだっけ」
「・・・」
拍子抜けの回答に、紅夜はなす術もなく振り上げた拳をそのまま下ろすしかなかった。無論、それを京義にぶつけたところでどのくらいのダメージになるか、想像がついている。京義はそんな紅夜の心中を察するでもなく、気ままに欠伸を繰り返している。京義は基本的に、人を気遣うという行いから掛け離れたところに住んでいる。あんなに眠がっていたのだから、きっと物凄く疲れていたのだろうと思って、昨日は心配をしたものだったが、それも呆気なく杞憂で終わったのだ。
「何や、それやったら大丈夫やねんな」
「・・・何が?」
「いや、めっちゃ眠そうやったから疲れてるんやと思って心配してたんやけど」
「・・・一禾も?」
「うん、そう・・・。そ、そや!昨日晩御飯にも下りてこうへんで!」
「そうか」
「・・・?」
何故そこで一禾の名前が出てきたのか、紅夜は良く分からなかったけれど、染以外のことでも心配性で過保護の一禾のことである、それで京義も一禾と言ったのだろうと、その時はそう解釈していた。殆ど呟くようにして、京義は顔を伏せる。銀色の髪がまだ暑さの残る風に煽られて、さらさらと揺れる。まるで温度など全く感知しないような白い肌に、熱を持つ太陽が似合わない。バスが来ない時間こうして、紅夜は京義を観察していた。見れば見るほど京義はいつも美しくあって、何だか妙な気持ちになる。その目が開いていなくても、閉じていたとしても、妙な気持ちは暫く、紅夜の胸に居座るのだ。
「それはちょっと気分良いな」
「な、何言ってんねん!」
「・・・何って」
「人心配させといて、何やねんそれ!」
「だってアイツいつも染のことばっか心配してるし」
「せやったら余計に俺らは、心配かけたらあかんのちゃうの」
「・・・」
それが何故か今日に限って、それは紅夜の胸をちくりと突いた。なぜそうだったのか分からない。後になって考えても、やっぱり良く分からない。無表情だった京義の眉が動いて、忽ち訝しげな表情を辿る。それはどうして紅夜が声を荒げるのか、分からないといった表情だった。しかし、京義にそんな顔をされても困る。紅夜だって分からなかった。窘めるようにいつもの調子で、京義を戒めれば良かった。途端恥ずかしくなって、紅夜は強引に目を反らした。反らした先で京義がこちらを見ているのが分かる。
「・・・そうかもな」
かもじゃなくて、そうなのだと思いながら紅夜は反論したかったが、京義がそう呟いたのを敢えて聞こえないふりをした。そしてそれは聞き逃すことの許されるくらい、小さな声だったのだ。ややあって、バスがそれ特有の音を立てて近づいて来るのが分かった。覚醒しているはずの京義は立ち上がって、飽きずに懲りずにまた欠伸を繰り返している。紅夜はそれをベンチに座ったまま見上げながら、結局まだ眠いのではないかと思って、笑うしかなかった。その頃にはもう胸に巣食っていた妙はどこかへと消えてしまっていた。
いつもの道順を辿って学校へ着くと、校門を入ってすぐのところにある掲示板の前に人だかりが出来ていた。平常は他愛無い学校行事が書かれているそこを、いつも生徒は立ち止まることなく過ぎ去っている。それが何故か今日に限って、やたらと人が集まっていて朝から賑やかだ。紅夜は不思議に思って、人だかりの後ろから、何があるのか背伸びしてみたが、何分人が沢山居るせいで良く分からない。京義は特に興味無さそうにしているが、始業までまだ少しあるので、何となくここに足止めを食らっている。
「紅夜―!」
「あ、嵐や」
「・・・」
喧騒を不意に割って嵐の声がして、紅夜は背伸びをして声の方に手を振った。一瞬のことで嵐の姿は見えなかったが、名前を呼んだということは紅夜の姿は見えているのだろう。暫くして嵐は人だかりの中から出て来た。迷惑そうにきっちりと制服を着こなしている多分同級である男子学生に嵐は睨まれていたけれど、特別彼はそれを気にしている様子もなく、もしかしたら気付いていないのかもしれない。珍しく嵐が早い時間から来ている。今日は京義も覚醒しているし、珍しいことが続くなと、紅夜は思った。
「何事やねん」
「ほら、昨日のテスト。結果もう出てるんだって」
「あぁ、テストか」
「・・・」
「お前さ、ホントに嫌味な点取るよな」
「え?」
嫌んなると呟いて、嵐は掲示板を指差した。紅夜は先刻と同じように背伸びをして、遠くに見えるそれに目を凝らしてみたが、何分人が多いので、そこに何が書いてあるかまでは読み取れない。この様子では一年生は殆どここに集まっているのではないかと思うほどの量だった。嵐にぽかんとしてみせると、忌々しげに頭をぐしゃぐしゃ撫でられる。でも何だかそれを、嫌だとも不快だとも思わない。その目付きも、紅夜の良く知っているものとは随分性質が違うことにただ驚くばかりで、それ以上は何も言えない。
「学年トップ、497だったらほとんど満点じゃん。どこで間違ったかの方が知りたいよ。俺は」
「・・・へー・・・何やよう出来たなぁとは思ったけど・・・」
「出来すぎだっつーの。嫌味か!」
「怒らんといてや。嵐は何点やったん?」
「聞くか、それ」
「ええやん、教えてくれたって」
「15位」
「・・・15位、学年で?」
「おぉ」
「何や、凄いやん」
「トップのお前に言われてもねー」
嵐はそう言いながら、どこか満更でもない様子で笑った。正直嵐には申し訳ないが、意外だった。勉強嫌いの嵐ではあるが、流石特別進学コースに居るだけあるのか、頭は良いようだ。そういえば成績が張り出されることなんて、今まで無かったなと思いながら、思い思いに背を伸ばし、目を凝らす同級生たちの背中を、紅夜は何処か不思議な気持ちで眺めていた。
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