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正解はひとつだけ Ⅳ
始業のチャイムが鳴り響いて、群がっていた生徒たちは、弾かれるように追い立てられるように動き出した。その動きに合わせて、紅夜も階段を上る。3階でもうすでに眠気が舞い戻ってきているらしい京義と別れて、嵐と一緒に教室まで向かう。それでいて京義はしっかりとした足取りで階段を上っていたから、多分今日のところは大丈夫だろう。昨日のようにはならない。思い出して、紅夜の脳裏にあの保険医の顔が過ぎった。結局誰だったのか、分からないままである。思い出せそうで、全く思い出せない。その余韻だけ残して、核心には触れられない。担任教師の声がして、紅夜と嵐は慌てて席に着いた。
「えー、今日はこれから昨日のテストを返します。呼ばれたら各自取りに来ること」
「相原くん」
呼ばれて紅夜は慌てて立ち上がった。出席番号は大体1番だった。はじめに名前を呼ばれるのも慣れている。担任の女教師に何枚かを一緒に渡されて、紅夜はさっさと席に戻った。出席番号が2番の生徒が、がたりと椅子から立ち上がった音がしただけで、教室は静かだった。席に戻って点数を確認する。確かに5枚あるうち、数学のテストだけが97点で、他は満点だった。途中ちょっとしたことで躓いて、数学のテストにだけ一部三角とかかれ、それで3点引かれている。惜しいことをしたなと、紅夜はそれを指で撫でながら思った。何てことないただの数式だった。やり尽くした筈の数式だった。
そうこうしている間に、名前はナ行が呼ばれ始め、その頃になると紅夜は手元のテストになど興味を失っていた。そんなものをいつまでも眺めていたところで、点数は上がったりしないのだ。教室は幾分だが騒がしくなり、隣同士でテストを見せ合ったりして、それぞれの感慨に目を細めている。勿論そんなことにも紅夜の興味はない。勉強は好きだった、昔から。分かり易いのが良い。頑張れば頑張るほど、それが如実に点数に表れて、それが心地良かったのかもしれない。決して裏切らないと知っているから、許されている気がしたのかもしれない。紅夜は考えながら、テストを二つに折り畳んだ。
初日の授業にも拘らず、教師は無駄話という奴をしない。それはここが有名進学校であるというのも、多分理由のひとつである。そんなことをしている暇があったら、さっさと授業を進めるのが吉なのだ。多分教師も教師という立場で、上の人間の重圧と戦っているのだろうと、教壇で声を張り上げる様を見ながら思う。たっぷり7時間目まで終わると、まだリズムに慣れきらない体がずしりと重たく感じた。そう思っているは紅夜だけではないのだろう、クラスメイトの表情は皆少しばかり暗く見えた。
「紅夜ー、帰ろうぜ」
「うん。ちょぉ待って」
いつの間にか、嵐と帰るのも習慣化してきてしまっている。そうして京義は、それに何も言う様子はない。やはり興味自体が薄いのだろう。特に何とも思っていないのが、やはり京義らしい。出会った頃はそりが合わないらしかったふたりだが、それも最近では仲良くやっているように、少なくとも紅夜の目にはそう見える。そりが合う、合わないなどの話を大体京義相手にするのもどうかと思う。あの性格に付き合いきれる人間がいるのかどうか、甚だ疑問である。紅夜は適当に机の中に残る荷物を纏めると、鞄を掴んで嵐を追いかけてさっと教室の扉を潜った。
「薄野、今日どこかな」
「・・・さぁ、音楽室かもしれへんなぁ」
「5階行ってみる?」
「うん」
京義の教室は1階上の3階だったが、教室に京義が居ることは稀だった。大体は音楽室で、そうでなければ昨日のように保健室で眠っている。紅夜が先立って階段を上っていると、上から京義が降りてきた。眠そうに目を瞬いて、口を開けたが何を言っているのか聞こえなかった。朝のときとは随分様相が変っている。これが7時間の結果なのか。覚束無い足取りで階段を下りて、京義はちらりと嵐を見やった。
「何や、京義珍しいな」
「・・・別に」
「何だよ、昼まで元気そうだったのにな」
「・・・」
「疲れたんやろ。俺も流石に疲れたわ」
「そうかなぁ」
「嵐は殆ど寝てたやん!」
紅夜の指摘に嵐は苦笑いを浮かべた。その少し後方で、京義はとろんとした目のまま歩いている。窓の外は部活動の生徒で騒がしい放課後、暑いか寒いかと言われればまだ暑く、額に汗が時折滲むようなそんな気候だった。紅夜が立ち止まって、そのの背中に京義が徐にぶつかった。振り返ると目が殆ど開いていない京義の、ふらふらとして重心の定まらないような姿がそこにある。
「何なん・・・今日も!?」
「紅夜・・・そんな怒るなよ。眠いんだって、分かる」
「眠いにしても限度があるわ!」
「・・・」
「京義!もう俺お前のこと引っ張って帰らへんからな!ちゃんと歩きや!」
「オイオイ、置いて帰んのかよ・・・」
「最悪そうする!」
力強く紅夜が言ったその隣で、京義は眠そうに目を両手で擦っていた。それを見て嵐は呆れてはいたが、紅夜を宥めるしかなかった。意識があるところを見ると、昨日よりは幾分マシかもしれないが、そんなもの大して役になど立ってくれない。
「そういやさ、紅夜」
「うん?」
「お前大学どこ行くとか決めてんの?」
「いや」
「そっか、まだだよな。流石に」
「・・・いやっていうか、行かへんで」
「・・・―――は?」
「行かへんで、俺高校卒業したら働くし・・・」
「えぇ!?」
嵐が不意に大声を出し、紅夜は反射的にびくりと体を震わせた。会話の内容を理解しているわけでは無いらしいが、京義も何事かと目を擦りながら、嵐の方に視線をやる。紅夜は当然のことを言ったのに、何故嵐がそんなに声を上げるほど驚くのか分からなかった。そうして嵐は嵐で、紅夜がまさかそんな回答をするとは思っても見なかった。暫く二人とも黙っていた。勿論京義は何も言わない。
「・・・お前何で?」
「だってそんなお金無いし。借りてるお金も多いし、早く返済せな」
「・・・そん・・・だって・・・」
「何で?俺ホンマゆうたら高校も行くつもりなかってんけどな。ナツさんがええ人やったから」
「・・・お前じゃあさ・・・」
「なに?」
「何のために勉強してんの・・・そんな」
何のためか、言われると言葉に詰まる自分が見つかる。そう言えば、何のためにやっていたのだろう。いざ問われると分からない。紅夜が難しそうな顔をして考えてしまった隣で、嵐はまだ釈然としない表情をしている。まさかあの成績で、あの頭で大学に行かないなど多分、学校側も思っていないだろう。まだ驚いている嵐は、まだ考えている紅夜の顔を覗きこんだ。
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