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正解はひとつだけ Ⅴ
良く分からなかった。何のためかと言われたら、それは自分のためであることは確実だが、進学を平常から考えていたわけではない。そのことからも確かに、有名進学校と銘打たれたところに態々入る必要性を疑う。しかし嵐にそう言われるまで、一度も意義を自分に問うてみたことがなかったなんて、そのことにまず紅夜は自分自身に呆れてしまった。学校を那岐高校にしたのは、夏衣だった。紅夜の中学時代の偏差値を見て、一番施設の良いところを探してくれていたらしい。
何とか京義と一緒に帰って来た紅夜は、談話室のソファーでぼんやり、嵐の驚いた顔を脳内で反芻させていた。もうそろそろ夕食時で、それに合わせるようにキッチンでは一禾が忙しなくしている。談話室には珍しく一禾とふたりきりで、それは静かな夕刻だった。この時間いつも暇そうにしているはずの夏衣の姿はない。夏衣が暇なのは殆ど一日中だったのだが。
「なぁ、一禾さん」
「うん?」
「何で一禾さん大学行ったん?」
「・・・何で?」
紅夜は不意の思いつきで、その時一禾にそう問うてみた。一禾は注意深く鍋の中を確認しながら、それでいて器用にキッチンから紅夜に視線を向ける。夏衣も居なかったが、その時間帯比較的談話室に居ることが多い染も、何故かその時は居なかった。染のことだからここに居ないことは、イコール自分の部屋に居るということだ。どうして、など染にも思っていた。本当に染にこそ思っていたのかもしれない。どうしてあんなに毎朝学校に行くのを躊躇って、外に怯えて過ごしているのに、大学なんか受験したのだろう。そして完全に渋々ではあるが、毎日のようにそこに出かけていくのだろう。
「・・・それ、言われると俺困るなー・・・」
「え?」
「何でとか聞かれると、答え辛い」
「・・・どういうこと?」
行っておいたほうが良いからとか、やりたいことがあったからとか、誰かの既存のフレーズを辿ったような、そんな言葉を一禾には期待していた。一禾にはそういう教科書的なところがある。そしてそういうものは得てして、こういう質問に対する返答の常套句であることも一禾は多分認識している。一禾は平常から女の子と遊んでいるように見えても結構なリアリストで、その唇から語られるのはいつも現実を見ている。そうしてそんな言葉を何度か、説教染みた口調で染に話しているのを聞いたことがあった。しかし、何故かその時一禾は紅夜の期待とは別に、困ったように愛想笑いを浮かべた。
「大学なんて行くつもり、無かったんだよな」
「・・・何で?一禾さんあんまり頭良くなかったん?」
「なかなか失礼だね、紅夜くん。でも残念、俺結構賢かった」
「・・・やろうね」
現在の一禾の立ち振る舞いを見ているだけで、一禾が勉強くらい人並み以上にこなしてきたことは窺い知れる。本当に時々この人は苦手なことなどないのかもしれないと、その赤茶けた髪の毛がかかる横顔を見ながら思う。聞いてみたら案外、無いねと笑われるかもしれない。それも有りそうな想像だった。その潜在的な能力も勿論高いのだろうが、一禾は本当に物事に対して総じて要領という奴が、此方が辟易してしまうくらいに良かった。それを紅夜が時折眉を顰めるそのだらしない女性関係にも、発揮しているのかもしれない。それでも一禾は染に比べると遥かに人間らしい。おかしなことではあったが。
「せやったら何で行くことになったん?」
「・・・うーん・・・色々あるけど一番は・・・」
「・・・」
「染ちゃんが行くって言ったから・・・かな」
「・・・また染さんなんや」
「ははは」
それは一禾の日頃の言動を見ていれば、案外にも簡単に予想出来た答えだったのかもしれない。少なくとも、紅夜はそれを聞いた瞬間にそう思っていた。一禾の口から語れることは、京義に比べたら遥かに多かった。一禾は良く笑い、そして時々厳しいことも言ったが、それは常に人間らしい熱を含んでいて、その大半はやはり染に向けられている。一禾は目を細めて、何か懐かしいものを見るような目で、自棄に穏やかに静まり返った口調でそう言った。一禾特有の乾いた笑いをたてながら、火を調節するために少し屈んで、紅夜の座っているソファーから一禾の姿が不意に見えなくなる。紅夜はソファーから乗り出すようにして、後ろで先刻から騒々しく鳴っているテレビを無視した。それよりも目の前の一禾の答えが知りたかった。
「まぁね、あの子が学校に行くって言ってくれたことが嬉しくて」
「・・・へぇ」
「俺も考え無しの行動に出たもんだよ」
一禾は何処か罰が悪そうに、紅夜から不自然な動作で目を反らした。
「・・・後悔してるん?」
「まぁ、半分くらいは」
「でも、大学行かへんで、一禾さん如何するつもりやったん」
「・・・うーん・・・」
「何か、やりたいことでもあったん?」
不意のことに揺らいだように見えた。その完璧に整いきった横顔が。でもそう見えたのは一瞬で、次の瞬間には、一禾は元々そうであったかのように微笑を取り戻していた。だからその時紅夜はそれを、特別気になどしなかった。それが一禾の動揺なのだと知る術を、残念ながらその時はまだ、紅夜は持ち合わせていなかったのだ。一禾は紅夜の疑問を噛み締めるように暫く黙ったまま目の前の鍋の様子を見ながら、時折掻き混ぜている。美味しそうな匂いは紅夜のところにも既に届いていて、談話室はそれでもう暫く待てば埋め尽くされる。そうして夕食の時間が迫っていることを、皆黙ったまま悟るのだ。
「まぁね。でも結局俺の選択は失敗じゃなかったと思うよ」
「何で?」
「だって染ちゃん、ひとりならきっと学校行ってないよ」
「・・・確かに」
「だから俺は大学行って良かったって、思ってるよ」
でも、黙ったまま紅夜は思った。声に出して良いのか迷って、でも思っていた。そこに一禾の存在が、さっぱり忘れ去られている気がする。一禾の気持ちとか、思いとか、そういうものが全部。今の言葉だけではとても、説明されていない。説明され切らない。それは確かに他の誰でもない、一禾の言葉だったのに。一禾の思いとは別に、何が一禾を支配しているのか、何が一禾をコントロールしているのか。紅夜は迷った。迷っている間に談話室の扉が開いて、そこから染が顔を出した。
「いちかー、もうご飯?」
「うん、もうちょっと。悪いけど紅夜くん、京義起こして来てくれる?」
「うーん・・・せやけど起きひんかも。何か最近妙に眠そうやねん」
「いつも眠そうじゃん、アイツ」
「いや、最近それに輪をかけて眠そうやねん」
「ふーん・・・バイトかなぁ。あんまり無理しないように言わないとね」
ソファーから立ち上がって、紅夜は談話室の扉に手をかけた。結局嵐が納得するような回答を、此処からでは見つけられそうにない。それに随分前に自分自身は、それに納得する術を失ってしまった。当然と思い込んでいたせいかもしれない。外に出ると纏わりついてくる暑さの残る空気を切るように歩いて、2階にある京義の部屋に向かった。まだ彼はそこで眠っているのだろうか。
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