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正解はひとつだけ Ⅵ

将来のことなど考えたことが無かった。明日のことでいつも精一杯だったから。考える余裕がここにはあるのだと暗闇を見つめながら思う。それはどうなのだろう、幸せなことなのだろうか。眠れないまま寝返りを打った。ぼんやりと明るい窓の外から、東京の眠らない夜が見えている。紅夜は起き上がって、窓を開けると熱く湿った空気が流れ込んで来た。こんな時に夏衣は居ない。こんな時に限って夏衣は居ない。 でも、もう夏衣に甘えることは許されないような気もしている。子どもだからと許される範囲は越えてきている気がする。考えながら、自分は案外将来というものに絶望し切っているのかもしれないと、そんなところまで飛躍した思考は熱い風に煽られ戻ってこない。何のためかと聞かれると、何も答えられなくなる。何かのためにペンを握ってきたわけではなかった。それしかすることが無かったのだ。はじめはただの暇潰しで、それから解き放たれた今でも、そこに安らぎが在るような気がして伸ばしてしまうのだ、手を。 紅夜はベッドから降り立ち、自室の扉を開けて外に出た。眠れそうもない、こんな日は。ホテルの中は静まり返り、けれども人の息衝く音は聞こえてきそうな静寂だ。裸足で廊下を歩くと、こんなにも空気は熱を帯びているのに足の裏だけひやりとする。少し歩くと、一階に続く階段がある。元々本当のホテルだっただけに、随分と幅の広い階段だ。ぼんやりと夜の光が窓から入って、そこを照らしている。 「京義?」 「・・・」 その階段の一番上に、誰かが座っているように見えた。二階に居るのは自分と、京義の二人で、染と一禾は三階の部屋を使っている。何となく京義かと思って、呼びかけると人影は振り返った。ぼんやりとした光の中、何ともつかない灰色の髪が、きらきらと光るのが見えた。 「・・・なんや、やっぱ京義か・・・」 「・・・何やってんだ、お前」 「そら、京義も一緒やないか」 「・・・」 呆れたように紅夜が呟いて、京義は無表情のまま首を戻した。紅夜は冷たい廊下を歩き、京義のほんのすぐ隣に座った。夜の京義は昼間とは打って変わって、完全に覚醒しているようだった。あれだけ昼間眠っていたら、流石に夜は眠れないか、と紅夜は自己処理し、そう思うことにした。階段の上からはいつもの談話室の扉付近が見え、階段の裏奥にオーナー夏衣の部屋がある。 「何やってんの、京義はここで」 「・・・別に」 「別にて・・・答えになっとらんわ」 「・・・」 「寝たほうがええんちゃう。昼間あんなに眠いんやったら」 「・・・昼間は眠いもんだ」 「いや、ちゃう。絶対ちゃう」 実に真面目な顔で京義はそう言った。本当にそれくらい思っていそうで怖い。紅夜は力強く否定したが、それが京義に伝わっているとも余り思えなかった。最近自棄に眠そうだとは思っていたが、こうやって毎晩起きていたら、幾ら何でも眠いに決まっている。紅夜は此処最近の京義の様子を思い出しながら、呆れ返ってしまった。最近は酷いが、これまでこんなことは無かった。それも不思議だった。 「眠りたくても眠れないんだ」 「・・・え?」 「睡眠薬でも飲んで、眠った方が良いのかもしれないな」 「・・・ホンマに?」 「・・・」 「ホンマに眠れへんのやったら病院とか行ったほうが・・・ええんとちゃうの」 不意に京義の口を割って出た真実は、この暗がりに自棄に重みを持って降り立った。紅夜にはそう思えた。とても深刻な何かのようにしか、思えなかった。しかし本人は特に気にした様子も無く、伸びた前髪を指で弄っている。心配そうな紅夜の顔をちらりと見ただけで、後は無言だった。京義の最近の動向は、どう考えてもおかしかった。彼に何か、変化があったとしか思えなかった。 「なぁ、京義」 「・・・」 「ホンマに酷いんやったら・・・つか、俺の目から見たらもうかなり酷いんやけど・・・」 「・・・」 「誰かに、ホラ、一禾さんとかに・・・相談」 「心配かけんなって言ったの、誰だよ」 「・・・あ」 「・・・」 「じゃあ、じゃあ、ナツさんとか・・・」 「・・・」 夏衣は居なかった。京義は黙って、紅夜も何だかそれ以上は言えずに閉口してしまった。京義はここで一体何をしているのだろう、結局はじめの疑問に繋がる頼りない思考。そう言えば、何度か京義を起こす目的で彼の部屋に足を踏み入れたことはあるが、その部屋には何も無かった。銀色のベッドとクローゼットがあるだけで、京義の私物らしいものはそこに存在していなかった。 「京義は将来のこととか考えたことあるん?」 「・・・何で」 「今日嵐とそんな話しててん。京義寝てたから知らんと思うけど」 「・・・」 「大学とか・・・行くん?」 「・・・」 辺りは静か過ぎて、紅夜は妙に声を抑えなければならなかった。京義が言葉少なに語るその端々から、それを推測するのには余りに情報が足りていなかった。きっと京義は、自分のことを話すのが苦手なのだろうと、紅夜はまた一人でそう自己処理し、納得していた。そう言えば、一禾は言っていた。隠し事のひとつやふたつ、人にはあるものだと。京義は暫く黙って、それを聞いていた。 「俺は大学、行くけど」 「え」 「やりたいことがあるから、行くけど」 「・・・ふーん」 何と答えて良いのか分からず、曖昧な相槌が口から零れた。そうか、皆そうやって自分の将来のこと、未来のこと、決めているのだ。紅夜はそんな当然のことを、改めて思っていた。誰かに決められるわけではなく、それは自由に選択されるべく、そこに散らばって見えるのだ。眩しいそれを手にとって、選ぶのはこちらの意思なのだ。そんな当然のことを、今更知らしめられた気がした。 「俺、もう寝るわ」 「え、あ、うん」 「じゃ」 「・・・おやすみ」 か細くついた声が、京義に聞こえているとは思えなかった。裸足の爪先が、冷えたように白くなっている。それはどこへ向かうために紅夜にくっ付いているのか、紅夜自身も良く分からなくてそれを撫でた。ぼんやり東京の夜が窓から忍び込んでくる、その日。動けなくてそこから、青く光る石の床をただぼんやり眺めていた。

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