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正解はひとつだけ Ⅶ
目覚めた体は妙に冷えていて、紅夜は思い切って布団を剥ぎ取るとそのままベッドから降り立って、一番はじめに窓を開けた。今日も雲ひとつない空が、偽者臭い青色を貼り付けて見える、文句なしの快晴だった。窓の側で大きく伸びをすると肩でふうと息を吐いた。まだ奥で眠気が燻っている気がした。それを振り切るようにして一度体を捻ると、さっさと制服に着替える。制服を着さえすれば、気持ちも体も自然にしゃきっとするのが常だった。夏場のままの軽装な自分が、クローゼットの奥の姿見に映っている。ネクタイのノットを一番綺麗な形になるように直して、カッターシャツの袖をびしっと引っ張って、皺を伸ばした。それから部屋の奥の洗面所に入り、顔を洗うと冷たい水が更に頭を覚ましてくれる。
そうやっていつもの手順で朝の支度が終わると、扉を押し開けて廊下に出た。階段を挟んで隣に位置する京義の部屋の扉は、今日も頑に眠気を主張するようにきっちり閉まっている。あれから少しでも眠れたのだろうか。眠れたら良いけれど、最近の京義は本当に傍目から見ていても酷いの一言だった。昨晩の京義の様子を思い出しながら、暫く座っていた階段を下りる。見える談話室には電気が付いており、もう人が起き出しているようだ、僅かに気配が扉から漏れ出している。紅夜はそこにはまだ入らないで、エントランスで用意されているローファーに足を突っ込むと、自動ドアを潜ってポーチに出る。この辺りはホテルの名残が残っているのだろうと毎度思う。きっとこれはここに住むことになってから夏衣が設えたのだろう、取って付けたように設置されている白い郵便受けに手を突っ込み、新聞とダイレクトメールを掴むと、元来た道を引き返した。
談話室に入ると、早々と一禾がキッチンに居るのが見えた。一禾は大体誰よりも早く起きて、朝ご飯を作っているらしい。その次に起きているはずの夏衣の姿は、やはり依然としてホテルの中にはない。染も朝は特別苦にならないのか、起きるのは比較的早い方だが、最近は長期の休日のせいで昼前まで眠っていると、一禾が苦々しく言っていたのを思い出した。
「おはよ、紅夜くん」
「おはよう、一禾さん」
「もうすぐご飯出来るよー」
「うん、有難う」
朝は正確な時間が必要なためテレビのスイッチを入れるとこの時間は大体、朝のニュースをやっている。天気予報を見ながら、やはり今日1日は昨日に引き続きまた暑くなりそうだと、もう既に暑い首周りを締めるネクタイを、だらしなくならない程度に少し緩めた。ソファーに座って、悪い政治家が弁解する映像をぼんやり眺める。テーブルに朝食が並ぶ頃になっても、京義は依然として下りてくる様子がない。紅夜はふと天井を見上げたが、まさかそこから京義の気配を読み取れるわけではなく。
「一禾さーん」
「うーん?なに?」
「京義、下りてくるかなぁ」
「・・・さぁねー・・・ちょっと見て来ようか、俺」
「ホンマ?」
「うん、染ちゃんにも声かけるし、まぁ多分起きないけどさ」
笑いながら一禾は手際よくエプロンを外して、それをカウンターの上に投げた。紅夜は一禾と入れ替わりにキッチンに入り、一禾が注いでいた味噌汁の残りを注ぎ分けた。それでもきっちり4人分用意するのは、とても一禾らしい。仕方ないと漏らしながら、一禾は最近の夏の暑さを全く感じさせないような青いシャツの裾を翻し、談話室から出て行った。残された紅夜は味噌汁をテーブルに並べて、更に茶碗に炊き立てのご飯を盛っていると談話室の扉が開く音がした。一禾にしては返ってくるのが早過ぎる。振り返ると、ぼんやりとした目の京義が一応制服には着替えて、そこに立っていた。
「あ、京義。おはよう」
「・・・あぁ」
「ご飯出来てるで」
やはり今日も眠そうだ。京義はふらふらとテーブルに近づき、いつもの場所に座った。この様子から推測するに、あれから眠れたわけではないらしい。間もなく一禾が手ぶらで3階から降りて来て、苦笑いをしながら染の分の朝食に綺麗にラップをかける。一禾が朝食に手をつける前に紅夜と京義は食べ終わっていて、ダイニングテーブルに突っ伏して眠ろうとし始める京義の腕を引っ張りながら、それを苦笑いで見送る一禾に手を振ってホテルを出発する。いつもの朝だ。いつもと同じ朝。
変らないで居ることは、案外難しいのかもしれない。人間は環境に順応する生き物だ。だから変っていく、この土地で、この環境で。前は出来なかったことが、ここでは可能になる。そんな幻想すら見せられる。本物と疑わしくなる。でもそれは時々本物で、こちらが手を伸ばすのを待っているようにも見えた。偽者と区別がつかない。しかし考えると、偽者とは一体何だろうか、ということになる。そんなもの、あったのだろうか。ただ自分が偽者と決め付けて手を伸ばしてそれの形を感触から知ることを恐れて、それを少し遠くから眺めていただけではないのか。結局紅夜の見ていたものは皆本物だったのかもしれないし、それは紅夜の推測したように偽者だったのかもしれない。けれどその真意を知るものはここには居らずに、またここに居ないということはどこにも居ないということで、紅夜はそれを永遠に知ることは出来ないままだった。
「あんなぁ、嵐」
「お?」
「俺、もうちょっと考えることにするわ」
「・・・え?」
「その、大学とか、そういうこと」
「・・・おぉ・・・俺もそれが良いと思う。紅夜が行かないなんて勿体無いぜ」
「有難う」
にこりと側で笑う友達に、言葉以上の他意なんてないのだろう。屋上のフェンスに凭れかかって空を見上げると、今日の朝、部屋の窓から見たのと同じ色をしている。やはりそれはここが東京とは思えないほど、綺麗に澄み渡っていた。ここにはそう思える余裕がある。それは決して、悪いことなんかではない。少なくとも紅夜はそう思っていた、そう思おうとしていた。
「まぁ何だ、紅夜頭良いしさ、大学も奨学金って出るし」
「うん」
「私立行かなきゃそんな授業料もかからないと思うし・・・」
「・・・せやな、俺も選んでええんやんな」
「決まってんじゃん、何言ってんだよ」
「・・・」
一禾の持たせてくれたお弁当は、早くも中身が空になっている。俯いたまま黙って紅夜が微笑むと、嵐は安心したように、ほっと息を吐いた。その隣で先ほどから何も言わない京義は、緑色のフェンスに凭れかかっていた。そこに実に不安定な姿勢で留まったまま、器用に寝息を立てている。その京義の目の前に広げられたお弁当箱も、すっかり空になっている。
「薄野、今日も眠そうだな・・・」
「何ゆうてんねん、京義が眠そうなんはいつものことや」
「まぁそうだけどさ・・・」
いつか選ぶ日が来たら、その時は思い切り迷ってやれば良いのだ。ただそれだけのことなのだ。
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