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昔の傷を舐める

本当に彼には苦手なものなどないようだった。そのことの本意を彼に直接確かめたことがないので、実際彼自身どう思っているのか分からなかったが、周りの人間から見たらそれは決して現実を誇張していない事実に思えた。彼は良くそういう人の間で笑っていた。まるで本当に何もかもが自分の手のひらの中で行われていることであるとでも言いたげで、憎憎しげに映るはずの彼の笑みさえ、美しくてそれ以上何も感じることが出来ないのだ。そういう傲慢さや自己肯定感を彼が一体どのように処理していたのか不明瞭だったが、それが明るみに出ることは往々としてなく、それが彼の人間的な器用さでもあったように思う。 「一禾さんは弱点無さそうやんな」 「弱点?」 「うん、何か全部、上手く行ってる感じするわ」 「あはは」 「何で笑うんだよ、一禾」 だって本当におかしかった。そんなに大真面目な顔をして一体何を言い出すのかと思えば、その時紅夜の口を突いて出たのはそんなことで、それに一禾は驚かされながら目尻に浮いた涙を掬って、まだ笑っている口元を押さえた。紅夜のほうは本気で言っているのか分からないが、何故笑うのだと自分を嗜めた染の目は真剣だった。何年一緒に居るのだろうと、その目に思う。一緒に居るとか、もうそういうレベルでもない話であるのは確かなのに、この男は依然自分の隣でそんなことを言っては眉を顰めている。それに理解がないと怒ることも出来ずに、憤慨する理由は充分に用意されているが、敢えて一禾はそれを見つけ出さない選択をすることが多い。染だってそれを無意識にやっているのだから、兎角染の場合こういう人の心の機微には疎いのだから、叱ってやるのも可哀想だからと、野放しにした結果が時々裏目に出ている。 「あるよ」 「あるん?」 「・・・何だよ、言ってみろよ」 「俺ね、目が悪いの」 「・・・目?」 「目・・・そうだっけ?」 「そうだよ、俺眼鏡かけてたことあったでしょ?」 「・・・?」 何故か染はクエスチョンマークを浮かべ、釈然としない表情をしている。一禾は視力が悪かった。中学の後半から眼鏡をかけはじめ、高校時代はずっとコンタクトレンズに頼って生きてきた。どちらも一禾にとっては煩わしいもので、如何して自分は視力が悪いのだろうと、鏡を見ながら思ったものだ。一体どうしてそこまで視力低下したのか、原因というものを医者の説明からは掴むことは出来なかったのだが、その当時の一禾の視力の悪さは相当で、普通に座ると手元が見えないほどであった。 「一禾さんコンタクトなん?」 「コンタクトだったんだけどねぇ、あれ煩わしくってさ」 「・・・コンタクトだったか・・・?」 「もうね、何だか面倒臭くって止めちゃった」 「・・・止めたって・・・」 「じゃぁ一禾今見えて無いんじゃ・・・!」 「んなわけないでしょ」 眼鏡もコンタクトレンズも思い出すことを放棄して、染は全く的外れのことを言い出す。これには隣で紅夜も呆れた顔をしていた。あんなに煩わしい思いをしていた、それも長年。それなのにここに来て、夏衣が執拗に伊達眼鏡をかけているのを目の当たりにして、一禾は暫く混乱してしまった。あんなものを始終顔に乗せて平気な顔をしている、夏衣の神経を疑う。 「矯正したんだよ、大学入って、すぐぐらい」 「矯正?」 「・・・矯正なんかしてたっけ・・・?」 「うん。結構お金かかったらしいけど、でもそのお陰で今は1.5でばっちり見えるし」 「・・・らしいけど?」 染の記憶は曖昧だ。大学に入ってすぐなら、ごく最近のことだろう。それをどうして思い出せないのか、自分でも分からない。一禾は依然きょとんとしている染を見ながら可笑しくて更に唇を湾曲させる。治療は怖かったがこれで視力が戻ると思えば、我慢出来ないことはなかった。そうして今あの憎憎しいものたちから解き放たれて、一禾は本来の姿を取り戻しそこに座っている。紅夜が目を付けた一禾の言葉尻、濁されたそこに他意を感じる。言いながら殆ど同時に紅夜は顔を顰めた。 「お金出したの俺じゃないしね」 「・・・やっぱそうなん・・・」 「だって俺大学生だよ?そんな大金持ってないよ」 「・・・返す気とか・・・無いんやろ」 「借りたんじゃなくて貰ったんだからね」 「ろくな大人にならへん!」 「だって一禾が困ってるなら出すって言う人がさー・・・」 「聞きとう無いわ!」 乱暴に席を立って、紅夜は憤慨したまま談話室を出て行った。それをにこやかに一禾は見送る。思えば本当に欲しかったものは、後にも先にも矯正治療のためのお金くらいなものだったのかもしれない。高級外車やダイヤの光る時計なんか、一禾にとってはただの車と時計でしかない。ただそれを相応の価値のあるものとして一禾に自己満足とともに手渡している彼女達の気概を削いでしまわないために、ただそれだけのために一禾は笑って有難うというだけのことだった。何てことはない、それ自身は造作もない事実のことだ。 「・・・覚えてない・・・」 「染ちゃん酷いよね、あんなに一緒に居たのにさ」 「・・・確かに・・・」 「幻滅だよ、俺」 「・・・でもさぁ・・・一禾」 「うん?」 「目が良くなったんなら、もう怖いものなんて無いわけ?」 怖いものだらけの染は、テーブルに頬をぺたりとつけて一禾にそう問いかける。染のブルーはいつも焦点が合っていないようで合っている。それを時々恐ろしいと思って、一方で実に染らしいとも思う。一禾はそれに暫く考え込むように黙って、染の真っ黒の髪を手で梳いた。染はそれを嫌がることもせず、全く微動にしないで、ただされるままになっている。一禾の指は優しく、それは根元から自分の髪を引っ張ることはないと、それはもう盲目的に信じ切っているからだ。 「怖いもの、は無いかなぁ。怖い人は居るけど」 「怖い人?」 「怖いって言うか、敵わない人って言った方が良いかなぁ」 「・・・ふーん」 誰と聞かないのも染らしい。一禾に答えてやる気などさらさら無いのを、まるで知っているようだ。 「俺は怖い人ばっかりだなぁ・・・」 「人類の半分?」 言いながら一禾は笑ったが、染は青ざめてきゅっと唇を結んだだけだった。

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