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ふたりにはねむりを Ⅰ
それはずっと前から訪れていたことの延長だったのかもしれない。もしかしたら。
夜が自分を迎えてくれないのはいつものことだと京義は認識していたが、その認識は実は甘かったのかもしれない。ここまで拒絶されるとは思って居なかった。暗闇に目を凝らして今日も考える。この静かな夜に、一体自分は何をしているのだろう。紅夜に言われなくてもその異常さは自分で自覚しているつもりだったが、その認識までもが危ぶまれる。突然だった。突然突き放されたように、京義は夜に見捨てられた。
「・・・ん・・・」
目を覚ました教室で、京義は目を擦った。夜眠れないということは、昼間の眠気を増殖させる。ここ最近、授業はずっと臥せっていることが多い。教師もそれには知らぬ顔を、ここではする。勉強は義務で無く権利だ。権利を事実上放棄するその体勢を、教師は態々咎めたりはしないのだ。それにしても日は高いのに、目の前だけぼんやりと霞かかったように揺らいでいる。京義はもう一度目を擦った。教室には自分ひとりだった。他の誰の姿も無く、がらんと机と椅子が広がっている。
(・・・移動教室・・・だったか?)
誰も眠っている京義を起こそうとはしない。それは自分には関係の無いことだからだ。時間割を調べると次の授業は生物で、このぶんだと生物実験室だろう。時計はもう次の授業の時間を指していたが、教科書とノートを引っ張り出し、ふらつきながら立ち上がると、奇妙に目の前が揺れる。それに耐えて扉を開ける。ベージュ色に塗られた廊下を歩きながら、病的に重い瞼を閉じた。
「・・・」
何の飾り気も無いアルミで出来たペンケースが、廊下に広がるベージュに当たって中身が弾けた。ガシャン、と衝突音が誰も居ない廊下に自棄に大きく響く。持ち主の手を逃れた教科書とノートは好きな方向へと飛ばされ、ばさりと落ちた。受身も取らずに京義は強か頭を打ったはずだったが、眠気の方が勝っている。行かなければ、と薄れゆく意識の中で考えるが、体は鉛のように重くて、指すら動く気配がない。遠くでチャイムの鳴っている音がして、京義は遂に意識を手放した。
次に目が覚めた時、蛍光灯の明かりが自棄に眩しかった。朝なのか夜なのか、はたまた昼なのか分からない人工的な光に照らされて、目蓋が意思とは関係なく閉じていく。それでも何度か瞬きを繰り返すと、それにも慣れて状況が飲み込めた。この硬い簡易ベッドは、健康管理センターのベッドだ。起き上がって、辺りを見渡す。ベッドの下には学校指定の自分の鞄が置いてあった。自分の足で此処に来たのだろうか、京義は記憶を辿るが全く覚えていない。それは無意味な黒に結局は集約している。
「起きたか、不良少年」
「・・・?」
「頭は大丈夫か、どこか痛いところは?」
突然カーテンが引かれて、そこから唯が顔を覗かせた。薄いブルーのシャツに白衣を重ねるだけで、どうしてこうもこの男がそれらしく見えるのか謎だった。唯は銀縁の眼鏡を引き上げ、奥の黒を細めた。じいっとそれを見ていると、唯は忽ち訝しげな顔をする。この男が笑っていたり怒っていたりするところを見たことが無かった。無表情か、不快か、どちらかでいつも構成されている乏しい選択。今日は不快だった。
「何だ」
「・・・別に無い」
「は?」
「・・・別にどこも痛くない」
「・・・そりゃ、良かったな」
カーテンを開けたまま、唯は白衣を翻し、乱雑したままの机に戻った。ここはいつも綺麗に片付いているのに、唯の座っている机の上だけが、自棄に汚い。ファイルを片手で退かして、唯は小さい箱を机の上から持ち上げた。手馴れた動作で中から一本抜く。一体何だろうと思って、それを見ていると、唯は躊躇無くそれを銜えた。そこで煙草だと気が付いた。
「すぐ相原が迎えに来る。大人しく待ってろ」
「・・・」
「・・・なに」
「煙草」
「・・・あぁ」
そして躊躇無く放たれる火。目を凝らしても小さい箱のパッケージまでは読み取れない。歯の間から吐き出される煙、何だか懐かしい匂いがする。唯はやはりにこりともせず、それをスラックスのポケットに押しやった。そういえば最近、あの匂いには癒されていない。
「お前は言わないよな」
「・・・何が」
「煙草吸っても良いんですかとか、此処は学校ですよとか」
「・・・アンタ分かってんのか」
「別に悪かないだろ。なぁ不良少年」
「・・・」
その響きには多少抵抗がある。見下されている気がして何となく腹が立つ。ただ唯にしてみれば京義の大人ぶった行いなど、その四文字を決して逸脱しないのだろう。それが分かるから余計に悔しい。何も言い返せないでいると、不意に扉の開く音が聞こえた。
「唯ちゃん」
「・・・ちゃんは止めろ」
「また煙草吸ってるやん!何で学校で堂々と吸えんねん」
「そう思うんなら教育委員会に訴えろ」
「・・・職無くしても構わんのか」
「生憎困ってない」
煩いのは紅夜だったのか。唯が何故そんなことを自分に言ってきたのか、そこで京義はようやく意味が飲み込めた。京義はベッドを降りて鞄を拾った。唯の煙草を取り上げる紅夜と目が合う。紅夜はニ三度目を瞬かせた後、きっちり灰皿にそれを押し付けて、京義の方へやってきた。
「大丈夫なん、京義」
「何とも無い」
「何とも無いのに何で倒れんねん」
「・・・」
「ただの疲労だろ、眠ってただけだ」
「えー・・・ホンマにそうなん?何か信じられへん」
「お前俺を誰だと思ってる」
唯が眉間に皺を寄せて、紅夜が快活に笑う。何か言わなければいけないと京義は思ったが、何を言わなければならなかったのか、次には忘れている。起きたばかりの脳はもう酸素を喰い散らかして、足りないと喚いているから頭が働かないのか、それにしても眠かった。振り返れば硬いが、清潔なベッドが用意されているけれど、どうして振り返ることも出来ないのだろうと、紅夜の横顔を見ながら京義はぼんやり思った。
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