95 / 302

ふたりにはねむりを Ⅱ

廊下は自棄に閑散とした空気で、授業は全て終わってしまっているようだった。とするといつからいつまで眠っていたのか、そんなことは考えたくもないが。一度も目を覚まさなかったなんて、どうかしている。それがいつもの眠気なんていう言葉で片付けられないことに、京義は人知れず身震いした。隣で紅夜が、京義の鞄と自分の鞄を持って、しきりに何か言っていたけれど、勿論今はそれどころではない。 「京義?聞いてるん?」 「・・・」 「まだ眠そうやな・・・ホンマに大丈夫なん?」 「・・・別に、眠いだけだ」 「やったらええけど・・・」 「・・・」 それにしても昼間は意識を失うほど眠いというのに、どうしてこの眠気はこのままの形で留まらずに、夜になるとどこかへ身を潜めるのだろう。呼んでも探しても出てきてはくれなくて、途方に暮れるころに朝が来る。この連鎖には一体、何の意味があるのだろう。考えても分からない。生暖かい空気を吸い込んで、それが脳に届く前に、目蓋が閉まろうとするのを僅かに妨害するだけだ。 「ホテルに電話したらな、一禾さん来てくれるって」 「・・・え?」 「家帰って、ちゃんと寝たほうがええで、な」 「・・・お前、一禾に言ったのか」 「・・・やってナツさんいいひんねんもん・・・」 「・・・」 不承不承に紅夜が口を尖らせて、京義はそれを見てひっそりと溜め息を吐いた。一禾はきっと優しいことを言うだろう。京義のことを心配して、心痛そうに眉を寄せるだろう。あの心配性で過保護の一禾のことだ、そんな表情は簡単に目に浮かぶ。だからこそそんな顔は見たくないのに。何も分かっていないのだと、隣を歩く紅夜の少し色の抜けた髪を見つめた。 「ほな、俺、こっちやし。正門のところで待ってるからな」 「・・・あぁ」 下駄箱で別れて、紅夜は京義の鞄を持ったまま行ってしまった。何だか酷く億劫な気分のまま、またベージュ色の廊下にひとり残される。 一禾が乗ってきたのは、ある女の子と交際を始める前に貰ったというワインレッドのBMWだった。一禾の場合ある女の子が記憶の中列を成しており、それがどこまで続いているのか、それは一種の諦めなのか、もう誰も追及することを止めている。それを正門に横付けして待っているのだから、あからさまに目立っている。生徒は一体この人は何者なのだという無遠慮な視線を一禾にぶつけながら、その横を恐る恐る過ぎて行く。それを目にした時、京義は本気で他人のふりをしたかったのだが、一禾がサングラスを外して笑顔でひらひらと手を振っているので、現実問題その計画は破綻に終わる。 「京義大丈夫?倒れたんだって?」 「・・・」 「・・・っていうか、一禾さん・・・」 「え、なに?」 「・・・ようそんな車で・・・いや、もうちょっと普通の・・・」 「だって俺こういうのしか持ってないし、ほらぁ、舐められないようにしようと思ってさ」 「・・・誰に・・・」 「まぁ、いいや、乗って乗って」 「・・・はぁ」 笑顔のままの一禾に、何が良いのか良く分からないまま、ばっちり左ハンドルのそれに当然のように詰め込まれる。座り心地は最高だが、それ以上に居心地が悪く、他の生徒の目が痛い。一禾はまたその小さな顔にサングラスを付け直すと、ゆっくり車を発進させた。揺れだす車内の中、眠気がまた襲ってくるのを、流れる外の景色を見ながらやり過ごしていた。隣で紅夜はまだ呆れたように溜め息を吐いている。 「でも大丈夫だったの?ホントに」 「・・・あぁ」 「何とも無いんやって、ただの疲労ってゆわれた」 「へー・・・疲労で倒れるかなぁ?」 「やろ、俺も思ったんやけど、京義も大丈夫やってゆうし」 「・・・」 「京義、ちょっとバイトも考えたほうが良いよ。暫く休んで、夜ゆっくり眠らなきゃ」 「・・・分かった」 気が付くと目の前に、白い皿があった。隣には紅夜が座っていて、ご馳走様、と手を合わせている。目の前の一禾が立ち上がって、京義の前の皿を取り上げ、流しに運んでいった。ぼんやりそれを見送る。さっきまで車の中に居たのではなかったのか、思って背筋が寒くなった。記憶が飛んでいる。どうやら夕食が終わったようだが、白い皿の上に何が乗っていたのか、それを自分はどの順番で食べたのか、全く記憶が無い。 「染さん、俺ドラマ見たいんやけど」 「えぇー」 「いつも見てるやん、代わってぇな」 「・・・勉強したら良いじゃん」 「後でするもん」 片付けられていく食器。制服からいつの間に着替えたのか、見覚えのない服を着て、テーブルを前にただ座っている。流石に京義は頭が痛かった。意味が分からない。車に乗っていたところまでは意識がはっきりしていた。けれどそれ以降を、どう考えても思い出すことが出来ない。まるではじめから無かったかのようだ。 「・・・京義?」 見上げると一禾がエプロンをつけたまま、自分を心配そうに見下ろしている。京義は口を開きかけ、そこから出てくる言葉を待ったが、京義の期待を裏切って、言葉は出てこず、声だけ掠れた。一禾が不思議そうな顔をする。言いたかった本当は、言って一禾に助けて欲しかった。 「なに?どうしたの?」 「・・・―――」 「一禾!」 「染ちゃん」 「一禾、紅夜が、紅夜がぁ・・・!」 「なに、喧嘩しないでよ、ふたりとも」 ぼんやりと目の前を過ぎていく。現実とはいつもこうだったから。京義はだからそれに落胆などしては駄目だと自分に言い聞かせながら、ゆっくり席を立った。眠れない夜がもうすぐ自分を迎えに来るけれど、どこまで逃げたら捕まらないのかなんて、やっぱり分からないのだ。迎え撃つために今のうちに少しでも眠っておこうと、談話室の扉を開けると、くらくらと脳が揺れた。 きっとこれは眠気などではないのだ。

ともだちにシェアしよう!