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ふたりにはねむりを Ⅲ

頭が痛い。いやそれでは表現に些か語弊がある。頭が痛いほど、眠い、が正確だ。談話室から抜け出した京義はふらふらと階段まで辿り着いて、でも見上げるそれを上り切る自信がない。きっと途中で眠気に捕まって、この階段を引き摺り下ろされるに決まっている。一歩足を踏み出すごとに、どんどん睡魔に侵食されてゆく。薄れる意識の中、必死に鈍る考えを巡らせ、滅多に使わないエレベーターの方に向かった。壁伝いをゆっくり殆ど這うように進んで、ようやくエレベーターが奥に見えてくる。もう少しと思ったところで、突然膝ががくりと崩れた。眠い。荒く呼吸を繰り返して、眠りから遠ざかろうと顔を上げる。何かもっと別のことを考えていないと、すぐにでも目蓋を閉じ切ってしまいそうだった。不意に目の前の今は無人のオーナーの部屋を開いているだけの目が捉える。 (・・・開いて、る・・・無用心、な) ノブを捻ると容易にそれは開き、特に何があるわけでない夏衣の部屋に雪崩れ込むように入った。その頃になると、もう自分の意思のみでは立っていられないようにまでなっていた。若干段になっている玄関に手を突いて、フローリングまで殆ど匍匐前進。奥にベッドが見えたが、到底辿り着ける距離ではなく、硬いフローリングでも外よりましかと考えている間に、またぐらぐらと脳味噌が揺れた気がして気持ちが悪かった。力を抜いた全身が、だらりと崩れ落ちてそのまま、意識が遠ざかっていくのに時間はかからなかった。 目が覚める。時計を確認するとぴったり12時だった。頭は完全に覚醒していて、惰性でも眠気はそこにない。くっきりとした視界で、全てのものが闇色に包まれている。自分だけが昼間に取り残されて、それはいつだって奇怪な気分だった。眠っていたという時間感覚が京義の中から抜け落ちていて、目を閉じて目を開くまでは殆ど数秒にしか感じられない。硬いフローリングで眠っていた体をゆっくり伸ばし、くるりと首を回して気が付いた。此処は自分の部屋ではない。さっと血が下る妙な感覚とともに立ち上がる。 夏衣の部屋には殆どそれらしいものが無かったが、ここが夏衣の部屋であることは、京義は余り認めたくはないのだが、苦々しい思いとともに良く知っていた。記憶を辿る。先刻のようにもし見つからなかったら如何しようという不安がなかったわけではないが、それ以外真実を知る術がなくて仕方なく辿る。眠くて自室のある二階まで上がることが出来なかった、膝ががくりと崩れたのを感覚だけが覚えていた。あぁ、そうか、京義は安心と同時に納得して、フローリングに腰を降ろした。これから夜が明けるまで、眠れないのかと思うと億劫でならない。目を瞑るまではあんなに味方をしてくれていた睡魔が、夜になるとすっかり京義を裏切るのだ。 眠れないのは分かっていたが、せめて眠る努力はしようと思って、京義は立ち上がった。兎も角部屋に帰ってベッドに横になっていたら、その内睡眠は自分を喰いに来るかもしれない。それはただの慰めに過ぎないことくらい分からないわけではなかったが、それに易々と屈するわけにもいかなかった。自棄に冴え切った頭で考えながら、くるりと後ろを向くと、そう遠くない距離にベッドがある。あそこまで辿り着けずに、こんなところで眠ってしまうほどの睡魔は、一体何処からやって来て、そしてどこへ行ってしまったのだろう。自分で自分に呆れながら、ベッドまで近寄り、若干大きめのそれを見つめる。そして如何して突然、突き放したりするのだろう。一体自分がそれらに何をしたというのだろう。 (・・・何なんだよ、一体) 分からなかった。ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱暴に掻き回して、京義はもう随分と前からそれに何度も途方に暮れている。夜は眠らないことが多かった。だからといってそれはゼロではないし、記憶が無くなるまで昼間眠いと、何も出来なくなる。自由がどこにもない気がして、だから背筋が寒い。一体どうしていつからこんな風になったのか、京義はそれに説明出来ない自分に苛々するしかなくなっている。そして自分ですらそれを正確に捉えることが出来ないのなら、どこにも説明など求められないのも分かっている。その時不意にふっと足元が軽くなって、京義はふらついた体を、足を踏ん張って支えた。 (・・・え・・・?) くらりと揺れる目の前の景色、高くなる体温、これを知っている。一体何というのだったか、考える脳内が徐々にぼやけてくる。もう良いか、何でも良いか、次に目を開けた時に考えれば良いのだ、京義はそれすら手放して、踏ん張っていた足の力を緩めた。倒れる体、軋むスプリング、どろりと溶け出す思考に、京義は自分から目を瞑った。このまま、このまま朝までどうか、目覚めませんように。確認した時12時ぴったりだったから、きっと今は少し過ぎてしまっている。この時間に睡魔がやって来たのはいつ頃ぶりだろう。先刻までそのことばかりをしきりに考えていたはずだったのに、何故だろう、肝心な時に思い出すことが出来なかった。考えているうちに眠くなって、拒絶された夜に、手を掴まれたような気がしていた。 時計は午前2時を軽く回っていた。今回もここを出て行った時のまま、一度も開かれることのなかったスーツケースを引いて、夏衣が帰って来たのは殆ど夜中で、それは特に珍しいことではなかった。東京に住む白鳥系列の人間に顔見せして、挨拶をして、社交辞令をして、ホテルまで帰ってくると大体がそんな時間になっていた。逆をいえばそんな時間まで東京支部は夏衣の帰宅を待っているということなのである。待っている割にはあの薄暗いオフィスの中は人が居る割には閑散とした空気が敷き詰められており、いつも歓迎されている気が全くしない。何処に居ても首元を掴まれているような危うい感覚の中、夏衣はそれに慣れ切ってただそこで生きているというだけの話である。それ以上も以下もなく、他を求めないで居ると常に平行線で変わらないそれに今はもう安堵すらしている。草臥れた体を引き摺るようにして、その日も静まり返ったホテルにひとり帰って来て、薄暗がりに進入されているエントランスを抜けて、自分の部屋に直行した。 「・・・あれ、開いてる・・・?」 部屋の鍵をそこに差し込むが、それは思ったほうには回らなかった。疲労のせいか余り素早く回転してくれない頭のまま、逆に回すと錠の落ちる音がする、とすると閉め忘れたのか。大事なものがあるわけではなかったので別に良いかと思ったが、流石に開けたままで一ヶ月も放置してしまったのは、勿論余り気分の良いものではなかった。溜め息を吐いてもう一度鍵を回して扉を開ける。暗い部屋の電気を付けて、スーツケースを引っ張り込んだ。コーヒーでも飲んで、さっさと眠ろうと矛盾したことを考える。スーツのジャケットを脱いで、テーブルに投げたところでようやく、部屋の中の異変に気が付いた。 (・・・あれ) 奥に誰か居る。人間の気配がするのだ。夏衣がベッドに近寄ると、そこに京義が意識を手放して、眠り込んでいるのが見えた。悪態ばかり吐きたがる口を綺麗に結んで、小さく寝息を立てている。夏衣は暫くそれを如何理解して良いのか分からず、ぼんやりと眺めていた。帰って来たばかりで、疲れていたせいもあった。はっと我に返ると、その反応がその時果たして正しかったのかどうか分からないが、慌てて付けたばかりの電気を消した。部屋の中にさっと黒が広がったのを確認すると、自棄に夏衣は安心した。訝しく思いながらももう一度ベッドに恐る恐る近寄ってみる。やはりそこには京義が、作り物のような顔を閉じて静かに眠っている。頬にかかる髪をそっとどかして、そこを撫でるも、京義は何の反応も見せない。 (・・・こりゃ随分・・・俺も懐かれたもんだなぁ・・・) 隣にごろりと横になる。スーツが皺になるなと思ったけれど、鍵が開いていたと分かった時と同じように、もう何だかどっちでも良いような気がしていた。薄く息を吐いて眠る京義の頬にそっと触っても意識はこちらに帰ってこない。京義の眠りはいつも、こちらが少し心配してしまうくらい深過ぎるほど深い。反応が無いところを見ると、今日も例外ではないようだった。気を良くした夏衣はちょっと強引に腕を回して、ぐいっと引き寄せてみた。すると京義が僅かに口を開けて、そこから吐息を漏らすと共に何か言ったようだった。しかしそれは側にいる夏衣にですら上手く聞き取れず、そして京義も見る間に口を閉じ、腕と足を器用に丸めて眠る体制を整えている。食い込む眼鏡を取って、サイドテーブルに投げた。 閉じていればただの美しい少年なのに、口を開けば煙草だ何だ、あいつは気に食わない、死ね、と平常のように漏らすから頂けない。陶器のように白くて冷たい頬を撫でる。淡い色の唇に、触れたいとも思うが、嫌な顔をきっと今はしないのだろうと思うと、何だかそれも寂しくて、夏衣は目を閉じた。 抱き枕にしては豪勢過ぎるが、腕には丁度おさまるのだ。

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