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ふたりにはねむりを Ⅳ
薄く目を開くと、そこには懐かしい顔があった。いや、懐かしいなんて柔らかく穏やかな言葉で彼を表現して良いはずがない、そんなことは京義自身の常道が許そうとしない。京義は途端フリーズした思考で、暫く動けないで居た。ぎりぎりと首を回して、状況を確認すると、如何も自分は無理な体勢で抱きしめられているみたいだった。昨日とは違うことで、また背筋が寒くなる。飛び起きると、夏衣の手がまるで人形みたいにだらりと布団の上に流れ落ちた。夏衣をそのままの格好でそこに残したまま、京義は寝起きにしては俊敏な動作で壁際まで避難し、起き抜けの頭で考える。考えても、考えても、分からなかった。
(・・・なんで・・・)
部屋を見渡して気付いたことだったが、どうやらここは自分の部屋でもないようだった。このベッドの大きさから憶測するに、ここはきっと夏衣の部屋だ。しかし、いつの間にここに連れてこられたのか、それにしてもその記憶はないし、大体夏衣は今ホテルに居ないはずなのでは、ぐるぐると同じところを京義が辿っていると、不意に夏衣がくるりと寝返りを打った。それに不自然にびくりと反応した体を一瞬のことで硬直させる。何やら言いながら、夏衣がむくりと起き上がった。それにどうすることも出来なくて、京義はただそれを傍観していただけだったのだが、起きる前に逃げるべきだったと、後に京義は自分を呪うこととなる。
「・・・うう・・・あー・・・」
「・・・あ、けいぎだ。お早う」
「おぉ!っていうか、俺!スーツのままで寝てるじゃん!しわしわ!」
眠そうに暫くむにゃむにゃと日本語ではない言語を撒き散らしていた夏衣だったが、自分がスーツのまま寝ていたことに気付くや否や、大袈裟な動作でベッドから飛び降り、めそめそと泣き言を言いながら真っ白のシャツからネクタイを抜くと、恥ずかしげもなくばさりと音を立ててそれを脱いだ。まるで一度も日光に照らされていないかのように白い肌は痩せていて、骨が浮くように目立っている。鎖骨、肋骨とその形が実に良く分かる。京義はどうしたら良いものか、直視出来ずに視線を落した。
「やだー、もうクリーニング出さなきゃー・・・」
「何か着るものー」
落ち込んだ声を出しながら、朝方にも拘らずばたばたと忙しなく夏衣が部屋を横切っていく。居辛くなってしまった京義は、そっとベッドから降りようと足を伸ばした。このままこっそりこの部屋を抜け出せば、何も無かったことになるだろう。後ろめたい気持ちを引き摺って、京義はそろそろとした動作でフローリングに足を突いた。夏衣がティーシャツを着て戻ってきたのとばっちり目が合うまでは、京義だってそう思っていた。夏衣は起き抜けのせいなのか珍しく眼鏡のない顔で、唇だけ奇妙にそれでいて実に美しく歪めて見せた。何か良くないことの兆候のように、京義は慌ててベッドから降り立った。そういう時の夏衣は苦手だった。それが京義に常日頃許されていることでは勿論なかったのだったが、そういう時の夏衣にはより一層抵抗出来ない気がした。そして、それはしてはいけないような気に、京義を簡単に陥れる。
「急ぐことはないんじゃないの、京義」
「か、える、から」
「あ、微妙に動揺してるねぇ、可愛い」
夏衣はこれだから、いつも頂けない。可愛い、可愛いとまるでそれしか知らない子どものように繰り返しては自己満足に浸っている。唇をそっと撫でられて、良い気分などには決してならないのに、どうして理解してくれないのか。それとも夏衣に理解を求めること自体が、愚鈍な行いなのか。自分でも分からなかった。ただここが近くて、ここには大きいベッドがあったのだ。朝まで眠れて良かったと、京義は夏衣の存在とは別のところで、それには安堵していた。ずっとあのままだったら、きっと病院かどこかへ、いつか担ぎ込まれかねなかった。どこも悪くないことぐらい、京義が一番良く分かっている。
「口開けて」
「・・・なんで」
「何でか聞くの?口開けて」
言葉は時々強迫めいていて、目は時々本気の色を映すから、良く知っているはずの夏衣が、時々知らない人間に見える。仕方なく少しだけ唇を開くと、そこに容赦なく指を突っ込まれて、京義は少し咽た。生理的な涙が目に浮かんで、抗議の意味を込めて夏衣を睨みつけるも、夏衣は先ほどの楽しそうな表情を一変させ、怖いほど全くの無表情で何処にも悪びれた様子はなかった。今はいつくらいなのだろうと、京義は夏衣に指を銜えさせられたまま考えた。考えたが視界に時計は見当たらずに結局分からず、流石に一禾が呼びに来る時間まで、夏衣がこんなことを自分とするわけがないという確信がどこかにあったが、それも今が一体いつなのかによって簡単に覆させられる。強い力でベッドに引き戻されて、あんなに骨が浮いている痛々しい体をしているのに、この力は一体何処から生まれてくるのだろうといつも不思議だ。指を引き抜いて夏衣は、京義の唾液で濡れたそれを赤い舌で舐めた。一体そうすることで夏衣が何を得ようとしているのか、京義には分からない。
「・・・寂しかったの?京義」
「・・・なん、で」
「だって俺が帰ったら此処で寝てるんだもん」
「・・・―――」
「そう思うでしょ、俺じゃなくても」
今度は本当に可笑しそうにそれでいて意地悪く笑って、夏衣は何も言おうとしない京義の唇を舐めた。シャツを捲り上げられ、無防備な肌を夏衣の長い指が撫でるように進む。何故いつの間にこんなことになっているのか、京義は混乱する頭で考えた。抵抗しても良かったが、帰って来たばかりの夏衣はいつも機嫌が余り良くない。それに多分、抵抗する権利など京義には鼻から用意されていないのだ。それを自分も、勿論夏衣も熟知している。ともすれば目を瞑ってやり過ごすしかないのか、夏衣の指が不意に京義の敏感な部分に触れて、京義はびくりと体を反らせた。冷静だった思考も途端に快楽に歪む。
「・・・―――ァ」
「我慢しないで声出せば良いのに」
「・・・い、ちか、が」
「・・・良くないなぁ、京義」
「・・・え」
「良くないよ。他の男の名前なんて呼ばないで、ね」
一瞬寂しそうな顔をしたから、きっと見間違えたのだろうと思った。京義の知っている夏衣は、寂しい顔などしない。きっと夏衣は寂しい顔などしてはいけない。夏衣は加害者なのだから、そんなことは京義が許さない。だから見ないふりをする。それよりも上がってゆく自らの息遣いが耳元で煩く響いていることのほうが、京義の意識を一層侵食していく。その存在を主張するように、ピンク色に染まった京義の胸の突起を、夏衣は躊躇無く舐めた。身を捩って京義はそれに耐え続ける。きつく結んだ口から、善がる声を聞きたくて夏衣はちゃんと口を開けろと再三言うが、唇に血が滲んでも、京義は食い縛ってそれに耐える。夏衣は呆れて殆どそれに笑いながら、じんわり赤くなっているそこを指で突いた。
「京義、これは一体何の拷問なの」
「・・・っせ、続け、ろ」
「赤くなってるよ、血が出る」
「・・・やめ・・・っ」
「我慢しても良いけど、どうせ最後は声出しちゃうんだし」
「・・・―――っ」
夏衣がにこりと人の良さそうな笑みを浮かべて、でも知っている。この男は優しいなんてところからかけ離れている。カーテンから朝の光が漏れている。朝だろうが夜だろうが、夏衣は時間を気になどしないのだろう。まるで睡魔のようだと思った。
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