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ふたりにはねむりを Ⅴ
頭はぼんやりしているが、眠気とは別のことだった。だるい体は布団から離れる様子はないが、それもやはり眠気とは別のことなのだ。ぱたぱたと裸足でフローリングを歩く音がして、上半身裸の夏衣がひょいと京義の視界に顔を覗かせた。京義が鬱陶しがって顔を腕で覆うと、ベッドに足から上がってきて、その手首を掴んだ。先刻とは違って、それが自棄に優しい指を持っていたから、京義は逆に、それにどんなリアクションをして良いのか分からなかった。口を動かすとぴりりと唇が引っ張られて、痛みを京義に伝える。それと同時に眉を顰めたのを、夏衣は見ながらぐいっと顔を寄せた。
「痛いの?京義」
「・・・別に」
「舐めてあげるよ、見せて」
「・・・嫌だ」
反論なんか聞いていない。証拠に夏衣は口調よりも強引に、京義の唇に緩く自分のそれを重ねた。舐めてあげると夏衣が言ったように、それはキスというよりはただの消毒のようでもあった。赤く裂けた唇を、執拗に夏衣は舐めて京義は口より嫌がる素振りも見せずに、殆どされるままだった。基本的に京義には拒否権というものがない。閉じない夏衣の目を見上げながら、この男は何を考えているのだろうと思う。
「痛かった?御免ね」
「・・・」
「でも京義が悪いんだよ。俺は口を開けたほうが良いって言ったのに」
「・・・」
「他に無い?痛いところ。舐めてあげるから言いなよ」
「・・・別に無い」
あくまで優しく夏衣がそう言うので、悪人なら悪人のふりをもっとしてくれれば良いのに、と思う。仕方なく起き上がって膝を抱くと、本来その目的で使うべきところでは無い場所に、夏衣を受け入れたせいで後孔が痛んだが、まさかそんなことを、口には出せなかった。夏衣も隣に座って特に何をするわけでなく、上のほうをぼんやり見つめている。部屋の中は静かだった。
「どうして俺の部屋に居たの?」
「・・・」
「もしかして本当に恋しくなっちゃった?」
「・・・死ねば」
「だってそう思うじゃん。思わせぶりは良くないよー、京義」
溜め息を吐いて夏衣に目をやる。骨が浮いて痛々しい夏衣の薄っぺらな体を、見ていられない。服を着れば良いのに、夏衣はどうしてなのか頑なにそのままでいる。時計を見上げると、もう朝食の時間は過ぎていた。一禾は如何して呼びに来なかったのだろう、京義は考えた。呼びに来られても多分困ったと思うが、呼びに来ないのは、どう考えても可笑しいのではないだろうか。最早手遅れの部屋の中で、それでも京義がそれに思考を奪われていると、不意に目が部屋の隅にスーツケースを捉える。夏衣は夜中に帰って来たらしい、ということは一禾及び他のホテルの住人は夏衣が帰って来ていることを知らないのか。
「え、なに?」
それを知っていて、ことに及んだのだ、夏衣は。そこまで考えが至ると、京義はまた背筋が寒くなって、膝に乗っていた布団を引き上げた。本当に夏衣の考えていることは分からない。飄々としているその表情の端々に、時折自信に満ち溢れたものが見え隠れする。それだけならまだ良いのだが、それすら時折揺らいで、頼りなく笑ったりするから、何となく突き放せない甘さが自分の中に残る。加害者の腕はきっとそんなに弱弱しく震えたりしないのだろう、分かっているが、認める気はさらさらない。いやらしいやり方かもしれないけれど、賢いやり方には違いないのだろう。ただそれを認めたくなくて京義は、出来れば目を反らしたままで居たいと思う。
「眠れなくて、最近」
「・・・へぇ、それにしては良く寝てたけど」
「・・・」
「あ、御免。怒んないで」
「・・・上まで行く、気力が無くて」
「へー・・・そりゃ随分だね」
「だから」
「はぁ、成る程。もうちょっと色っぽい回答を期待したけど、京義には無理か」
「・・・何だよ」
「あはは、御免ね」
見慣れた笑顔で自分に都合の悪いことは、そうやって簡単になかったことにされる。夏衣はずるい大人の典型だ、本当に吐き気がするほど嫌悪すべき対象の枠内だ。ぐしぐし頭を撫でられて、完全に子ども扱いをするところも気に入らない。大体のことは、夏衣に頼めば何とかなった。バイトのこともそうだったし、他の諸々の面倒臭いことも何とかなっていた。だから夏衣には言っておく必要があった。出来れば言いたくはなかったのだが。京義は自分にそう言い訳をし、溜め息を吐いて皺になったシーツを眺めていた。
「薬があるだろ」
「・・・え?」
「睡眠薬、何でも良い。でも多分、市販の奴じゃ利かない」
「・・・睡眠薬、ねぇ」
「何とかしてくれ」
「・・・でも、薬とかに頼らない方が良いと思うけど」
「昼間眠い、病的に、だ。何も手がつかないと、困る」
「・・・ピアノも弾けない?」
夏衣のこういうところが嫌いだ。核心を突いてくる、一番放っておいて欲しい部分なのに。それには黙っていたが、黙っているだけで肯定しているのと同じことだ。結局自分はそうなのかと、思い知らされる気がして嫌だった。そんなことは言われなくても分かっているし、分かっているからこそ目を背けたいのも事実だった。そんなことで分かった気になどならないで欲しい、それなのに睨みつける目にもう覇気は宿らない。
「・・・兎に角、薬」
「京義がその外見で薬とか言ってると、変な薬と間違えちゃうかもよ?俺」
「・・・人が真剣に頼んでるのにか」
「逆にね」
「・・・もういい」
「頼らない方が良いと思うよ、薬にはさ」
「・・・」
「それがなくちゃ、生きていけないようになるよ、京義」
「・・・」
「それに昨日は眠れたんだし、きっと良くなるよ」
悪人なら悪人のふりを、そうすれば被害者ぶっていられる。善人なら善人のふりを、そうすれば同情にしておける。夏衣はどちらともつかないような顔をして、緩やかに頬を撫でた。気持ち悪いと一喝することは出来るのに、この男がどちらなのかまだ分からないから、惰性で付き合っているつもりなのだ。取り敢えず今のところは、そういうことにしておいている。
「眠れなかったらどうしてくれる」
「抱いてあげるからおいで」
「・・・やっぱ死ねよ、お前」
「やん、もう一回どう?」
それは言い訳なのかもしれないけれど。
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