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ふたりにはねむりを Ⅵ

熱い湯を浴びると、途端に図々しくもすっきりする頭と体。垂れる水滴をタオルに沁み込ませて、夏衣の用意した服に着替える。ふと自分の体だって筋肉質であるという観点からは程遠いし、むしろ少々やや痩せ型であることくらい自覚しているが、なぜあんなにも夏衣の体は痛々しく見えるのだろうと考える。きっとあれが悪い、あんな風にして同情を引いているつもりなのかもしれない。だったらそれはより一層嫌悪すべきやり方だ、やはり大人は汚くて小賢しいばかりで嫌になる。夏衣の部屋には京義の服があって、それがどうして必要なのだとか、そんなことを考える間もなく用意されている。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、それを享受してしまっている間はまだ、夏衣の手のひらの上に居るということなのだろう。溜め息を吐きながらもそれに腕を迷いなく通している自分自身というものに感じる矛盾は見ない振り。 そそくさと風呂場を出るとリビングで夏衣はソファーに座って、ぼんやりとテレビを見ているようだった。大き目のそれに電気が入っている。その後姿は何の害もない、ただの青年に見える。しかしそれが見た目だけの無害さであることを京義は知っている。京義は頭を拭きながら、後ろからそれに無言で近づいた。液晶大画面テレビは、奥様向けの情報バラエティーを放送している。夏衣はそれに特別見入っているわけでもないらしい。証拠に目が余り真剣ではなかった。京義もソファーの開いている部分に座って、ガラスのテーブルの上に置いてあったミネラルウォーターを、ペットボトルに直接口をつけて飲んだ。 「京義、あのさ」 「・・・何だよ」 「俺考えたんだけど、これ、あげる」 突然思い出したように夏衣は持って帰ったばかりのスーツケースを開くと、整理されているままの形で放置されていた中をごそごそとやって、鍵をひとつ取り出すと、ぽかんとしている京義の手を無理矢理開いてそこに乗せた。その鍵の形は見たことがあるし、京義も持っている。ただ余りその意図を掴むことが出来ずに、使ったことはなかったが。それはここのホテルの部屋の鍵だった。 「・・・何だこれ」 「俺の部屋の鍵」 「・・・要らない」 「そんなはっきり言わないでよ!傷付く!」 「必要ない」 「いや、でも持っといて。俺ここに居ないことも多いから、京義のことを抱きしめてあげられないこともあるけど」 「・・・話を聞けよ」 「でも薬よりずっと良いよ。大きいベッドに会いに来ると思ってさ」 「・・・丸め込まれてる・・・」 「勿論俺に会いに来ても良いけどね!」 「帰る」 立ち上がった京義に、夏衣は自棄に良い顔で手を振る。やることが終わったから、もう引き止める必要なんてありませんと、その顔は言っているようで嫌だった。忌々しい金属は手の中で光っている。投げつけてやろうかと思ったが、夏衣が言ったそれも事実で、結局言い返せなかった。仕方なくせめてもの嫌がらせの意味を込めて、その扉を大袈裟な音を立てて閉めると部屋を出た。外は中とのことを区別するためなのか、すっかり穏やかな空気に包まれている。肝心なところで押しの弱い、自分の性格は何とかならないのかと、京義は溜め息を吐きながらも結局は捨てることが出来ない鍵をポケットに押し込んだ。 「・・・あれ、京義。お早う」 一番会いたくない顔が、談話室に座っていて、京義は何だか気持ちが削がれる思いだった。良く考えればこの時間帯に一禾が談話室に居ることは想定できた事実だったが、何故か京義はその時物凄くタイミングが悪いと思った。さっきまでベッドの上でしていたことへの罪悪感が妙に生まれて、途端に遣り切れなくなる。そんな必要こそないのだと、言い聞かせても中々心の方は納得してくれなくて、最近は困り果てている。 「体大丈夫なの?あ、ご飯温めるから待ってね」 「・・・あぁ」 優しい間は辛いだけで、人間はどうしてこうも欲深い生き物なのだろうと、その顔を見ると思う。いつも思う。飽きることなく思う。思っているだけで口に出したことはないが、もしかしたら軽く伝わっているのではないかと感じるほど、毎回思うのだった。何故一禾が自分の体調を心配するような言葉を吐くのか、一瞬京義は分からなくてそれでも唇は勝手に分かったような音を出す。そういえば昨日学校で倒れたのを、勝手に紅夜が電話をして一禾が迎えに来たのだったということを、ダイニングのテーブルにつきながらぼんやりと思い出した。その記憶は真新しいものであるはずなのに、何故か物凄く遠い過去の思い出のように、断片的にしか蘇らなかった。 「・・・染は居ないのか」 「あぁ、染ちゃん?まだ寝てるんじゃないかなー。もうすぐ学校はじまるっていうのにね、早く生活リズム戻さなきゃ」 にこやかに穏やかに、決して一禾がそれだけの人間ではないと知っているけれど。温められた麻婆茄子を目の前に、京義は思い出したように溜め息を吐いた。どれだけ憎んでも結局、一禾と話すのはそういうことなのだ。助けを求めてその手を握ってくれるのは夏衣なのだ、一禾ではない。一禾には助けを呼ぶ声すら届かない。それを自分がどのように処理しているつもりなのか、京義は自分でも良く分からない。それをすっかり完全に諦めているつもりなどでは決してないと思うのに、何故か此処のところそれにはいつも裏切られてばかりのような気分がする。一体誰のせいなのか、間違いなくそれは自分だ。 「お早うー」 「あれ、ナツじゃん」 「・・・」 「愛する一禾、今帰ったよ」 「あぁ、そうなの。お帰り、ご飯食べる?」 「うん、食べる」 「ナツの嫌いな茄子だけどね!」 「び、微妙に怒ってるの・・・?」 「・・・」 先刻別れたままの姿で夏衣は飄々と談話室にやって来て、京義の目の前にちょんと座った。まるで本当に今帰って来たみたいで、本当に見た目のまま何もなかったようだ。嫌味とも取れる笑みを唇付近に湛えて、一禾が忙しなくキッチンで動く後姿を眺めている。京義はそれに途端に食欲が失せて、麻婆茄子を半分残してスプーンを置いた。夏衣の目が一禾を離れて、たった今気付いたみたいに京義のところでぴたりと止まる。それが瞬く内にわざとらしく歪み出すのを、京義は知らないふりをして目を伏せた。 「や、京義もお早う」 「・・・」 「俺が居ない間、寂しかった?御免ね」 「ちょっと、京義に変な風に絡まないで!朝から酔っ払ってるの?」 「一禾ぁ、大丈夫だよ。俺気は多いけど、ホントは一禾が一番好きなの!」 「あっそ、ありがた迷惑!」 「酷い!ふられた!京義慰めてぇー」 「止めろって言ってるでしょ」 「じゃぁ一禾が受け入れて?」 「迷惑って言ってるでしょ」 何処までが嘘で、どこまでが本当なのか。もうそんなことはどうでも良くなっていた。今日の夜は無事に眠りにつけるかどうかだけが、京義にとっては当面の問題である。ふざける、京義にとってはふざける域を超えない大人二人の遣り取りを見ながら、本当は残すつもりだった残りの麻婆茄子に手をつけた。

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