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ふたりにはねむりを Ⅶ
「何か最近機嫌良さそうやな、京義」
紅夜が何となく言った一言に京義は、当然のように眉を顰めて不快感を露にする。青で縁取られた新しく買った楽譜は、ピアノの黒の上に不安定に乗っている。紅夜のほうを見てみても、いつものように害のない顔でにこにこ笑っているだけでその意味が分からない。京義は椅子を定位置まで引くと、右足をペダルの上に乗せた。練習中の曲を誰かに聞かれるのは嫌だけれど、それを紅夜に言うのはもっと乗り気がしない。仕方なく惰性でこの形になっていることに、そして体のほうが勝手に慣れていく。
「どういう意味だ」
「どういうって・・・そのままやねんけど」
「もっと分かりやすく説明しろ」
「・・・説明のしようが・・・」
元々悪い目付きを更に悪くして京義が無言で睨むと、紅夜のほうも色々と慣れることもあるのだろう、それに流石に他のクラスメイトのように畏怖しなかったが、代わりにいつも煩くしている口を噤んだ。遣りかけの曲は一向に進まない。大体部屋に誰か居ると集中出来ないのは、京義の悪い癖みたいなものだった。更に紅夜が意味深なことを言って、意識はそちらに持っていかれる。仕方なく京義は楽譜を閉じて、練習曲を弾くことにした。指は相変わらず、京義の思うように滑らかに動いている。もしかして紅夜の言ったことは、こういうこところに表れている調子の良さだったのかと、京義はふと思った。
「ほらぁ、ちょっと前な。よう眠れへんって言ってたやん」
「・・・」
「最近眠れてるんやろ?良かったな」
「・・・―――くない」
「え?」
「良くない」
はっきりと声にすると、その通りだと自分でも思った。ずっと心の中に燻っていたものが鮮明に見えた気がして、もやもやしていたものの正体をようやく掴んだ気がした。確かに紅夜の言うように、最近は夜良く眠れる。昼間の覚醒時間が長いと、それだけ練習時間も多く取れる。兎に角、指を動かしていないと、気がすまなかった。眠れなくなる前はこんなことはなかったのに、何かの反動のようにピアノばかり弾いている。最近は授業も殆どストライキしてここでピアノを弾き続けているのを、おそらく紅夜は知らない。多分それが露見することになると、何かと非常識なことには煩い彼のことだから、目を吊り上げて京義相手だろうが誰相手だろうが、同じ尺度で叱るのだろうことは予測されている。だから紅夜にそのことをいうつもりはないし、おそらく京義自身が黙っていたら紅夜はそのことには気付かない。変なところで鈍いのである。
「何でやねん、困ってたんやろ」
「・・・困ってた」
「ほら、やったら良かったやん」
「・・・良くない、良いわけない」
「何やねん、それ」
きっと紅夜のこんな発言は、夏衣を喜ばせるだけなのだ。そんなことはない、そんなはずはないと呪文のように唱えながら、殆ど自動で動く指を見つめる。あの男の意思により、自分の生活が狂うことになるなんて御免だった。考えながら矛盾していると思う。狂うのが怖いならあんなところには居ないし、それよりもまず、もうすでに手遅れなほど狂っている。
「でも酷かったやん、随分」
「・・・」
「何で治ったん?」
「・・・」
「突然やったやんなぁ」
「・・・」
「あ、ほら、丁度ナツさんが・・・―――」
「さぁな」
自分でも流石にわざとらし過ぎるとは思ったが、京義は出来るだけ大きな声を出して、紅夜の言葉を殆ど無理矢理制した。普段こんなことを京義がしないことが災いしているのだろう、紅夜は吃驚してこちらを凝視している。手元にはカラフルな女の子らしい封筒がニ三枚握られている。それ以上はおぞましいだけだ。だから京義は知らないふりをして、聞かなかったふりをして、鍵盤を撫でることにあくまで集中しているふりをする。本当を言うならこんな曲、散々やったことの延長でしかない。
「何か、京義、ムキになってるやろ」
「・・・なってない」
「いや、なってる。何が気に食わへんねん、良くなったんやからええやないか」
「・・・」
「良かったやんか」
「・・・そうだな」
溜め息を吐いて京義は、根負けしてそう相槌を打った。紅夜はそれににこりとして、手紙に目を戻した。それが良いことなのか悪いことなのか、ピアノを弾ける分だけ、きっと良いことだと思って京義は自分を宥めた。それにしても勘が鋭いのか、殆ど的確にそんなことを言い出す紅夜には、若干呆れる。それでいて良く知らない第三者であるから、余計に性質が悪い。こちらの意思など汲み取ってくれるはずがないのだ。
考えながら思う。自分の意思とはどこにあるのだろう。どうして欲しかったのだろう。いつから分からなくなったのだろう。練習曲で指が絡んで、京義は驚いて鍵盤から指を離した。肩でゆっくり息を吐くと、痺れが指から上がってくるようだった。
「京義?」
心配そうな紅夜の声が聞こえて、京義は首を振った。大丈夫だと無言で訴えかけたつもりだった。元々言葉には頼らないことの方が多かった。既存の印では何も伝えられないなんて、そんな大それたことを言うつもりはなかったが、思っていたのは殆ど同じ意味だったのかもしれない。燻っていた何かは京義を捕らえようと必死になっており、それから逃げ続けているけれど、時々追いつかれても良いように速度を緩める。何故だろう。
「・・・帰るか、相原」
「あ、うん。そやな、もう遅いし」
余計に起きていると余計なことを考える。
何度か捨てようと思った金属は冷たく、まだ京義の手のひらの上に乗っている。そこに介入されている意思を疑わないほど子供ではなかったが、推測できるほど大人でもない。青い表紙の開いた楽譜をなぞり、少々大き過ぎるヘッドホンで買ったばかりのクラッシク全集の2巻目、チャイコフスキー特集を聞きながらでも、彼の声だけは何故か耳に直接入ってくるから不思議であり、不快だ。
「京義」
扉が叩かれる。確実に2回叩かれると、扉の奥の気配は身を潜めるのだった。京義はそれに目をやって、でもそれ以上のアクションは起こさず、また思い出したように楽譜を指でなぞる。時期が過ぎれば夏衣はいつものようにちゃらちゃらと、どうでも良いことを半分以上言いながら笑っている。それ以上のことが無くて良かった。それ以上のことなんて知りたいとも思わない。京義は楽譜を閉じて、それをベッドの端に押しやった。そのまま布団に突っ伏す。今日は眠れるのだろうか。
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