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傷口にジントニック Ⅰ
白のキャデラックは瑞樹が買ってくれたものだった。当時一禾が好きで乗っていた国産車をダサいと一喝した彼女は、次の日にはもう新しい車を買う算段をつけていたらしい。その翌日、マンションの前に止まっていた真新しいキャデラックを見て瑞樹は満足そうに頷いていたが、一禾は流石のことに驚いた。全くこれだからお嬢様というのはネジが飛んでいる、良くして貰っておきながら、一禾は毎度思うのだった。
眼鏡は嫌いだったが、サングラスはそうでもなかった。玲子が好きなブランドで一禾にサングラスを作ってくれたのが始まりだった。市販のものじゃ大きくて一禾には似合わない、と彼女も当然のように言い切った。顔の小さい一禾のために、オーダーメイドしたのだと言う。しかし、顔のサイズなんていつの間に測ったのだと、一禾は閉口したくなったが、物が良い物だったので、やはり笑って有難うと言うのだ。
兎も角、その日、一禾は瑞樹の買ってくれた白のキャデラックに、玲子が作ってくれたサングラスをかけて乗っていた。秋用の黒のコートはのぞみが買ってくれたもので、その下のスーツは百合子が新調してくれたものだった。黒光りする革靴でアクセルを踏むと、自分の存在などそこには無いようで、それは心地よくもあり、悲しくもあった。
都内の大き過ぎるビルの一角にそれはある。車を地下の駐車場に止めると、一禾は迷わず17階のボタンを押した。エレベーターが控えめな音を立てて止まる。青い絨毯が引き詰められたそこはしんと静まり返っていた。ガラスの扉に白い字で、カウンセリングセンターと書かれている。躊躇なくそれに手をかけ、開く。中はすっきりとしたフローリングで白いソファーが左側に見える。その向こうはテラスになっているらしく、ウッドデッキが広がっていた。
「どちらの先生にご入用ですか?」
それが何のための設えなのか、一禾には全く分からなかった。一禾が不思議に思ってそれをぼんやりと眺めていると、後ろからそう声をかけられてはっとした。くるりと振り返ると真面目そうな若い男が、受付らしきところに座っている。一禾は失礼かと思って、サングラスを外した。
「江崎先生に会いに来たんですけど」
「でしたら3番の扉からどうぞ」
「すいません、有難う御座います」
男は柔らかく笑って、一禾もそれに微笑み返した。サングラスを付け直すと、奥の廊下を進んだ。木の扉に白い字で、数字がそれぞれ振ってある。3番の扉はすぐ見つかった。銀色の取手に手をかけ、それを横に引く。スライド式の扉は音も無くすうっと開いた。一禾が手を離すと扉は重みで勝手に閉じる。目の前のブルーのカーテンに手をかけ、それも横にやや乱暴な動作で引くと、男はそこに自棄に畏まった形で座っていた。
「・・・こんにちは」
「こんにちは、上月くん」
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「いやいや、僕は暇だからね、別に構わないよ」
思ったとおり初老の男、江崎は受付の男の子以上に優しく微笑み、一禾は胸がずきっと疼いたのが分かった。この男は知っている。自分が知らないことを、知っている。そう思うと今以上に負けた気がするから、そうは思わないことに努めている。サングラスを取ると視界に色が戻った。
「どうぞ、座って」
「・・・失礼します」
「上月くんは相変わらず元気そうだね」
「はい、お陰様で」
江崎は一禾をお客様扱いする。一禾は決して患者ではないからだ。ローテーブルに出された紅茶を啜って、江崎の顔を盗み見ると、男は毒気のない顔でこちらを見て微笑んでいる。何か企んでいるというわけでもなく、ただ本当に優しい笑みだった。
「あの」
「うん?」
「この間、染ちゃんここに来ましたよね?」
「あぁ、来たよ」
「・・・」
「来たけど、その話は良いんじゃないかな?」
「・・・良いって・・・」
「君はどうなのかな、上月くん」
「・・・俺のことなんて、如何でも良いです」
「良くないよ、自分のことだろう?そんな風に言っちゃ、可哀想だ」
一禾はまたはっとして、江崎の顔を見返した。江崎は喉の奥でこちらに問いかけ、一禾はそれに答えられない。可哀想だと江崎は言ったが、一禾はそんなこと思ったことなど一度も無かった。だけど確かにその時、見透かされたような気になって、一禾はやはり居た堪れなくなった。江崎にはそういう力がある。それを認識せざるを得ない結果に、一禾は苦しそうに息を吐いた。
「染ちゃんの話をしてください、俺はそれを聞きに来たんです」
「聞いてどうするのかな」
「どうって・・・別に、どうもしません」
「・・・聞かない方が良いんじゃないかな」
「・・・どういう、意味ですか」
「聞かれても喋らないよ。僕らには守秘義務があるからね」
「・・・分かってます」
突き放したような言葉とは裏腹に、江崎の声は温く甘かった。ますます辛くなったが、逃げ出せそうにも無かった。一禾は諦めて、残った紅茶の水面に視線を落した。新作のコートも桁外れのスーツも色のついたサングラスも、そんなものはただの自己防衛だった。自分は大丈夫だと、ちゃんとここに居るのだと。江崎にはそれが分かっているようで、虚しくなる一方だった。
「俺は染ちゃんの保護者同然です」
「保護者同然と、保護者は別物だ。そうだろう?」
「・・・―――」
「僕にあの子を裏切る気は無いよ。御免ね」
「・・・あの人には話すんですか」
「・・・」
「俺じゃなかったら、あの人だったら、先生は話すんですか」
思わず立ち上がって大声を上げた自分に、一禾は珍しいと思うほどの冷静さを持ち合わせていた。江崎も特に微動にはせずに、困った顔で一禾を見ている。余計に腹が立ったが、一禾はソファーに座り直した。どうせ、誰か一人を守れるような腕を持つ大人には、敵わない。分かっている。
「・・・すいません」
「・・・」
「でも俺は、心配なんです。本当です」
「・・・そうか、でも」
「・・・?」
「君はもっと、自分のことを気遣うべきかな。上月くん」
「・・・―――」
見透かされているのだ、全部。
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