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傷口にジントニック Ⅱ
男は悠然とそこに居る。男の前でいつも、一禾は嫌になるほど無力なただの子どもだった。腕は自分を守るためで精一杯で、最早その為だけに付いているといっても過言ではない状態だった。一禾だって今まで苦しかったことがなかったわけではない、涙が止まらない日がなかったわけではない、こんな日々を続けることに無意味さを感じなかったことがないわけではない。ただそれを毎回曖昧に濁して、自分で自分を騙し続けて何となくここまでやってきたのだ。それはいつか男のようになれると信じた結果としての過程で、しかしそれには毎回絶望ばかり握り締めて背を向ける。男の正体は知らない。ただ美しくではなく、優しく微笑むその奥に正体などなくて、そのあからさまとも思える方法でこちらを見ている表面だけが男なのかもしれないと時々思う。男に裏表など存在しないのだ、分かりやすい誠実は形をつけて一禾の目の前に鎮座している。それこそが男の持っている本来の意味と名前をそれこそ如実に、分かり易く表している。まさかそんな男に打ち勝つ術はここにはなく、そしておそらく一禾の知っている範囲には何処にもなく、今日もまた絶望を繰り返す。きっとそうなのだ、そうだったことが今までなかったということは、きっと永遠に男相手に勝利などは望めないのだ。そうして自分は一体何を目的として勝利としているのか、そんなことにも答えられないでただ我武者羅になっている。こんなことではこんなままではまるで子どもだと思考は最初に戻って、堂々巡りを繰り返すばかりだった。そんなこと十二分に分かっているはずなのに、一禾は何故か此処に居る。
「学校は楽しいかな?」
「・・・俺のことなんて良いんです」
「楽しくない?上月くんは法学部だったっけ。どんな勉強してるの?」
「・・・先生・・・っ!」
「肩に力が入りすぎだな、君はいつも」
「・・・染ちゃんは何と言ったんですか」
「もう少し、ゆとりを持ったほうが良い」
「・・・」
「君が君のことを気に掛けてやらないと、誰も気には掛けてくれないよ」
「・・・そんな」
「座って。紅茶が冷めてしまったね」
酷く穏やかな、むしろ穏やか過ぎるとも思える声で江崎は言いながら、一禾には着席を促しながら自分は立ち上がって、奥に続く扉を開けて出て行った。呆然と一禾はその背中を見送った。近いようで遠く、そう感じているうちは届くことの無い背中だった。紅茶のポットは一禾が来る前に、江崎が準備したものなのであろう。そういう大人らしい気遣いを周到さとしか思えずに、それもまた気に食わなかった。思いながら一禾は、殆ど口惜しい気持ちが先行して奥歯を噛む、言い知れない気持ちばかりが、黒々と心中で渦を巻き続ける。そうなりたくて一生懸命やってきた、一禾が目指したものの象徴として江崎はそこにいる。しかし時々それを叩き壊してしまいたい衝動に駆られる。決して自分が江崎のように振舞うことの出来る大人になることが、叶わないと無意識に感じているからなのかもしれない。優しく笑う男に、いつも負けている気がして気に食わなかった。大声を出すのは怖いからだ。怖くて、子どもだからだ。こんなままでは自分はいつまで経っても此の侭だと、気付いているだけでそれ以上どうして良いのか一禾には分からないのだ。どうしたら江崎の言うようなゆとりを持てるのか、持てるとすればどこに持てるのか、持つべきなのか分からない。江崎の言うようにしていれば、江崎のようになるのだろうか。分からなければ永遠に自分はここにいて、居るばかりで此処から脱却出来ない気がする。ソファーに落ち着かせた体を深呼吸させて、そんなことはないと言い聞かせるたびに、江崎の言葉は心に直接響いて痛い。
誰も気には掛けてくれないよ、江崎は苦しがる一禾の肩に手を置くように、まるで耳の側で囁くようにそう言うのだ。そう言う江崎は、そう言う江崎こそが一禾のことを気に掛けているのではないだろうか。一禾はそれを下から眺めながら、何故か指摘出来ない。矛盾はその時になると唐突に矛盾とは思えず、自棄に正しい言葉のような気がしている。それに惑わされていると一禾は自分でも思うのに、何故か上手く振舞えなくてただ震撼している。江崎が戻ってきたら謝ろう、その方が大人に見えるからだ。出かけにセットしてきた髪をくしゃくしゃと掻き回して、一禾ははぁと息を吐き出した。それだけでもう胸の奥に何かが詰まっているような、違和感を体は正直に一禾に伝える。何もかも分かり切った顔をしていよう、そうしてさよならと言って帰るのだ。それが今時分で考えることの出来る一番良い方法だった。泣くのは後でも構わない。扉が開く音がして顔を上げた。出来る限り普通の顔をしていればと思った。傷付いたり落ち込んだりしていないのが自分だと思っていた。
「・・・ごめんなさい」
無知な子どもはそうやって頭を下げることしか知らない、許される術をひとつしか知らないから、それが間に合わせの言葉よりもおそらくは響くのだろうと信じていた。
「偉いね、そうやってちゃんと謝るのが大人だよ」
「・・・―――」
そう言って欲しいのだろう、そう言ってくれるのを待っているのだろう。見透かされていて痛い。注がれた紅茶は独特の匂いがしていて、嫌いではなかった。謝罪の言葉は陳腐な魔法に聞こえたし、発せられた側から酷く子ども染みていて嫌だった。こんなことが言いたいわけじゃないと言い訳をする一禾の心中すら、男には理解されているようで時々空恐ろしい。顔を伏せて一禾は、逃れるように待っていた、その言葉だけを。ごめんなさいと掠れた声で繰り返して、どうすれば大人になれるのだろうと考えた。どうやったってなれない現実のほうが真実らしくて、だから未だにここでこうして俯いているのだ。俯いているのと目を反らしているのは似ている気がする。どちらも現実を上手く捉えることが出来ないで、そこから逃げているのだから同じことだった。
「上月くん、君はもっと自由にしたほうが良いんじゃないかな」
「・・・それは・・・どういうことですか」
「何だかとても苦しそうに見えるよ、いつも」
「・・・」
「そんなに苦しいなら休みなさい。そのまま動き続けると、壊れてしまうよ」
「・・・せんせい」
「何だい」
その表現では玩具のようだと思った。一禾は確かに苦しかったが、息と共に吐き出した言葉は嘘なんかではなかった。嘘のほうが良かった。嘘のほうが心は痛まなかった。いつからこんな人間になってしまったのだろうと自嘲して、そんな自分にまた傷付いた。きっと縋るような目をして、縋るような声で、染は一体この男を前に、どんなことを話しているのだろう。分からなかった。そのことだけを求めている自分が、それだけを理解することが出来ないなんて、そこに酷い理不尽さを感じずにはいられない。一体何がいけないのか、きっと江崎に聞いても答えてはくれない。男は答えを知っているはずなのに。
「また来ても良いですか・・・」
声は弱弱しく響いた。江崎は顔を緩めると、やはり穏やかに微笑んだ。
「待ってるよ」
何にも持っていないのは、本当は自分の方だった。冷たいハンドルに顔をつけて、地下は光が届かない。そこでじっとしている間に出来ることは沢山あったけれど、一体何をするべきだったのか、過ぎる時間と共に徐々に忘れていく。ホテルには帰りたくないと一禾は根拠なく突然思った。女の家に行こうかと考えたがそれも何だか、今日に限って妙に気が重い。彼らも彼女らも自分の知らないところで上手くやっているのだろうと考えると、そこから自分はとんでもなく疎外されているような気分になる。嫌な気持ちだ。一禾は顔を上げた。このままここでこうしてくだを巻いていても仕方ない。どこに行くのか決めていないまま、車のキーを取り出しエンジンをかけた。どこでもいい、ここ以外ならどこでもいい。
「・・・」
自由に、と江崎は言った。今となってはそれだけが妙に、一禾の中に鮮やかに残っていた。自由にするというのは、一体どういうことなのだろう。一禾は何だって自分で決めていたつもりだったが、それは違ったのか。違ったとすればどこで間違ったのか。どうもそれに思い当たる節がない。これでは余計に重症のような気がして、体が無意識に震えた。自由に、と暗がりにひとり呟いて、それに何だか可笑しくなって笑ってしまった。その言葉は自分に自棄に似合わないような気がしたのだ。
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