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傷口にジントニック Ⅲ

不意にチャイムが鳴ったので、点けっぱなしで先刻から下らないバラエティーを垂れ流しているテレビをそのままにして、聞こえないかもしれないと思いながらも返事をしながら玄関へ向かった。どうせ宅急便か何かだろうと踏んでいて、大体そんな連中しか尋ねてこないのも悲しいけれど事実で間違いなかった。ジャージに変な柄のロンティーという格好だったが、このまま外に出るのは寒いけれど、家の中なら暖房が利いていて暖かいから、このくらいの格好で充分だった。もう一度チャイムが鳴って、今度はそれに大声で返事をしながら扉を開けた。 「はぁい、ダーリン。と・め・て?」 「・・・」 「何、キヨ。固まんないでよ、ノリ悪いなぁ」 「・・・い、いちか・・・」 「何?中入れてよ。寒いんだけど」 図々しくも部屋の主であるはずのキヨを押しのけ、一禾はキヨの部屋にずかずかと入り込んできた。眉間に皺が寄っていて、何だか機嫌があんまり宜しくなさそうである。どこか一禾の普段纏っているオーラにも、小さい棘らしいものを感じざるを得ない。小さい顔に大きめのサングラスをしている、下手な芸能人よりもそれらしい一禾は、黒のコートにスーツ、どちらも高級品なのだということは聞かずとも分かる品だった、という出で立ちで、キヨの安アパートには全く似合っていなかった。その隣で変な柄のロンティーに緑のジャージという先刻までは至って普通の格好だと思っていたキヨは、不意に自分がとんでもない不細工にでもなったような気がして、確かに同い年の友人相手に妙に焦燥していた。 「・・・な、何なんだよ、お前・・・」 「何って、別に。キヨ俺の友達でしょ。泊めてくれるくらい良いじゃん」 「・・・だって今までそんなこと一度も・・・」 「まぁ何、キヨは毎日頑張ってくれてるし、今日は恩返し?みたいな」 「・・・全くもって癒されてないんですけど・・・」 「ってか、このアパート駐車場無いんだね、駐車場代出してよね」 「・・・それが恩返しかよ・・・っつか、お前その格好・・・」 「うん?なに」 「どっか行ってたのか?」 「そんな、野暮なこと聞くなよ」 何故自分は染のせいで彼女も出来ないような寂しい日々を送っているのに、一禾は堂々と複数の女と遊んでいるのだろう。この矛盾は一体何なのだろうと、キヨは今更ながらに、自らの置かれた不条理な現実に頭を悩ませることとなった。今までそれをそれとして了承していた自分自身が、神かそれでなくとも聖職者のように思えた。そんな冷戦潔白な人間にしか、おそらく自分の思考回路は理解されない、何故か妙な確信と苛立ちを感じながらキヨは密かに考えた。しかし、そんなキヨの苦悩を知ってか知らぬか、一禾はお構い無しに、テレビの前に座り勝手にチャンネルをぱちぱち変えている。 「・・・お前、今日帰らないで良いのか?」 「うん、別に。皆何とかするでしょ」 「・・・なら良いけど・・・」 「あ、キヨ。俺夕飯作るよ」 「え?」 「恩返し。ちゃんとさせてよね」 「・・・本気なの、お前」 「キヨには感謝してるって、俺」 「・・・ホントかよ」 呆れたようにキヨが溜め息を吐くと、一禾は口元だけをきゅっと歪めた。こうして改めて見ると、今日の服装がそう見せているのかもしれないが一禾はとても大人っぽい。貧乏が代名詞の大学生のようには見えない。それに中身もそれに引っ張られてなのか、妙にしっかりしている。そういえば、一禾は中学の時からそうだった。一禾は当然のように全校生徒の憧れの的であり、かといってそれを鼻にかけるわけでなく、いつも明るく中学生らしい無邪気さを振り撒いていた。キヨにはそれでいてどこか、一禾が時折どういうわけなのか、妙に悟ったようにしているのが気に食わなかった。俺もお前も同じだろうと、一体何をそんなに上から見ているのだと、その横顔を見ながら密かに思っていた。けれど、今こうして改めて眺める一禾の横顔は、整っているばかりではなくやはりどこか悟ったようで、キヨはそれを見てももう何とも思わないのだ。 「嫌なことでもあったのかよ」 「・・・何で?」 「だって、お前がそうやって現実逃避してる時って、大体そうだったし」 何気なくキヨが発したその言葉に、一禾は敏感とも取れる素早さで口を噤んだ。やはり自分に不利になるようなことになると、頑なに喋ろうとしないその姿勢は中学の頃と変っていない。それを軽く冗談交じりに返す器用さを一禾は確実に身に付けているのに、何故かその時ばかりはそれを発揮させられない。一禾自身も不思議に思っているところだろう、キヨもそれを傍目から見ながらむしろ奇妙にすら感じていた。ただそれは一禾をより一層人間らしく見せているのも事実だった。きっと一禾にとって気に触ることを、今は触れられたくないことを言ってしまったのだろうけれど、キヨは口から出てもう自分の制御を離れたそれを前に、成す術を見つけることが出来なかった。一禾はまるで何事もなかったように黙ったまま、テレビのチャンネルに手を伸ばして、ぱちぱちとザッピングを繰り返している。無駄な光がその白い頬に当たって反射する仕様。 「あのさ」 「なに」 「中学の西原先生って居たじゃん」 「あの美人の数学教師?」 「うん。俺あの人と付き合ってたんだよね」 「・・・は?」 「付き合ってたって言うか、時々ご飯連れて行って貰って、時々セックスしてただけなんだけど」 じとっとその顔を見つめるが、一禾は何でもないような顔をしているから相当に性質が悪い。そうしてなかったことにするのだろうが、それにしてはどう考えても余りにも不器用なやり方だった。何故今頃そんな話が出てきたのか、キヨは首を傾げるしかない。今も繋がっているなら話は別だが、一端の公立中学の教師が一禾にこんな贅沢をさせることなど出来ないだろう。中学の時ならまだしも、一禾だってそんな金にならない女を相手にしているとは考え難い。考えても、考えてもキヨには分からなかった。 「あの、話が良く見えないんだけど」 「え?」 「何で今そんな話?」 「・・・いやさ、キヨ西原先生のこと好きだったじゃん」 「・・・」 「でも西原先生は俺のこと好きだったの、御免ね、黙ってて」 御免ねと口では言いながら、その横顔はどこかおかしそうに歪められており、勿論それが一禾の本意などではないことを、キヨは嫌でも知ることになる。不意に口を噤んだキヨに気付いて、一禾はテレビからゆっくりと目を離して振り返る。 「キヨ?」 「もう出てけー!疫病神!」 「やだな、そんな酷いこと言わないでよ」 「酷いことしてるのはどっちなんだよ!」 「そんな昔のこともう良いじゃん。それにホラ、俺もう切れてるし」 「じゃあ言うなよ!俺の甘酸っぱい思い出返せよ!」 一禾がまた声を上げて笑って、その横顔は昔見たような子どもっぽい表情で、それには何だかいつも安心させられている。何故だろう。

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