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傷口にジントニック Ⅳ

ホテル専用の電話というのは談話室と、オーナー夏衣の部屋にある。それが鳴るのも滅多なことではなかった。紅夜以外の住人は携帯電話を持っていたからだ。夏衣は紅夜に携帯を与えようとしたが、紅夜は特に必要ないからと言って断わった。学校では兎角一緒に居る京義は携帯を持っていたし、無ければ学校の公衆電話を使った。それもそんなに数の多いことではない。そうして今まで特に苦労もせずきているが、おそらく紅夜の中に養父である夏衣に迷惑をかけたくないという気持ちが強かったのだろう。 その日、ホテルの電話が鳴った時、談話室には夏衣と染が居て、必然的に夏衣が電話を取ることになる。一体それのどこが染の恐怖を触発するのか不明だったが、電話の音に怯えるように染は読んでいた本を突然放り出し、そちらを気にしながらもそれを気にしないようにしようという無意味に力強い意志を込めて、あらぬ方向を向いている。染にとってはただの電化製品についているそのコードひとつで、外と繋がっていると思うだけで、勝手に恐怖の原因になるらしい。全く困ったというより何だかここまでくると可哀想ですらあると考えつつも、縮こまった染を見ながら溜め息を吐いて、夏衣は受話器を耳に当てる。 「はい、白鳥です」 『あ、ナツ?俺、俺』 「・・・どちらさんで」 『一禾!』 「あぁ、一禾。どうしたの?」 「・・・いちか・・・?」 ひょっこり染が後ろから顔を出し、夏衣が意地悪そうに笑っているその顔と目線が合う。染はそれに気が付くと慌ててそっぽを向くが、それにどの程度意味があるのか分からない。電話の相手は一禾で、電話をしてくることは珍しかったし、ホテルの電話にかけることも滅多になかったので、双方ともそれが一禾だとは想定していなかった。 『あのさ、今日俺友達の家に泊まるから』 「・・・友達?」 『うん、友達、大学の』 「へー・・・まぁ、どの友達か知らないけど、ゆっくりして来たら?」 『いや、だから普通の友達だよ、同性の』 「またまたぁ」 「ナツ」 「うん?」 呼ばれて振り向くと、染が夏衣のシャツを何か言いたげに引っ張っていた。相手が一禾だと分かって安心したのか、その目から不安の色は消えていた。それにしても目の周りの皮膚の色は不健康に白く冴え冴えとしている。そうやって目線だけで相手に言いたいことを伝える能力があるのなら、きっと染はもっと上手くやっていけるはずなのに。夏衣はやれやれと思って、黒光りする受話器を染の手に乗せてやった。おずおずとそれを染は不器用な動作で、髪の毛の上から耳に当てる。 『ちょっと、ナツ?聞いてんの?』 「・・・いちか・・・」 『え、あれ?染ちゃん?』 「・・・今日、帰ってこねぇの」 『あ、うん。今キヨの家に居るんだけど、何か面倒だからそのまま学校行くね』 「えー・・・何だよ、それぇ・・・。キヨの家なら俺も呼んでくれれば良かったのに・・・」 『御免ね、また今度』 「・・・」 『じゃぁそういうことだから、ナツにもちゃんと言っておいてね』 「・・・ぁ」 プツリと途切れて、染は不意に泣きそうになった。だから嫌いなのだ、電話というものは此方の意思を余り汲んではくれない。ただの電化製品にそこまで求めてはいけないと思うけれど、もう少し繊細な道具であってもいいのではないかと常々思っている。音のしなくなった受話器を耳に当ててまま、近かった幻ばかり見せるその冷たさは一体どこから来るのだろうと思う。 「・・・染ちゃん」 「・・・切れた・・・」 「一禾帰ってこないんだってね」 「・・・うん、友達のところだって」 「怪しいもんだよ、全く」 「でも今まで連絡とかしてきたこと無かったし、多分そうだよ」 「・・・」 「なに?」 振り返る染の肩にぽんぽんと触れて、夏衣はにこりと笑った。一禾が居ないのと、一禾が帰ってこないのはまた別の話で、別の問題である。電話の向こうの一禾の声は、染の想像とは違って本物とよく似ていて、何だか無性に嫌だった。染はそれにどんな顔をして良いのか分からず、曖昧に笑みを浮かべた。 「元気出しなよ、染ちゃん」 「・・・別に、元気だし・・・」 「そんなぁ、一禾が居ないからって死ぬことはないんだからさ」 「・・・そうかな・・・」 「そうだよ」 「・・・」 「な、何悩んでるの?大丈夫?」 返事がない染の顔を覗き込むと、目が潤んでいた。夏衣がぎょっとして慌てて染の二の腕を掴むと、そこから異様な震えを感じて、今度は溜め息を吐いた。染にだって分かっている。ぎゅっと目を瞑って溢れそうな水分を手の甲でごしごし乱暴に拭うと、夏衣にその手首を掴まれた。余り擦るなと言いたいつもりなのだろうが、擦った方が涙は止まるような気がしたのだ。 「染ちゃーん。泣くことはないと思うけどなぁ・・・?」 「泣いて、ないし」 「・・・いやいや」 「べ、別に、平気、だし」 「・・・電話かける?友達のところだったら、帰って来てくれるでしょ、一禾」 「・・・」 「それが一禾にとってどうなのか俺には分からないけど」 「・・・―――」 一時夏衣の優しい言葉に顔を綻ばせた染は、二度目のそれに顔を引き攣らせて黙ってしまった。確かにそうだと思うから、それに反論は出来なくて、口は紡ぐけれども納得したわけではない。夏衣を睨んで、ただ八つ当たりをしているだけだと自分でも思うけれど、虚勢を張っていなければどうにかなってしまいそうだった。 「分かって、る」 「・・・なら良いんだけど」 「・・・」 何が良いのだろう、何も良くない。微笑む夏衣の顔が滲んで、ぼやける。どうしてこんなにひとりだと心細いのだろう。どうしてこんなに突き放された気がして悲しいのだろう。行ってしまう気がして恐ろしいのだ。電話が不意に切れたとき、染はそれがいつも恐れているものに似ていることを何となく悟って怖くなった。 「・・・除け者にされてる、俺」 「何だ、そっちなの?」

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