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傷口にジントニック Ⅴ
「染も呼んでやりゃ良いじゃん」
「・・・まぁ」
「アイツ今頃泣いてるぜ、可哀想な奴」
「そんなことないよ、ホテルにはナツも居るし、紅夜くんも京義も居るし」
「それとお前は違うだろうが」
電話口で泣くように言った、染の悲痛な声が蘇ってくる。そうだろうか、違うのだろうか。違うとすればどう違うのだろうか。確かめるつもりでキヨの方を見ると、キヨは特別それに他意を挟んでいたわけではないのだろう、一禾の煩いまでの視線に何だか分かっていない風で、無言のまま首を傾げる。無意識の言葉を信じて良いのかどうか、それに一瞬迷いが生まれる。
「まぁ、良いじゃん」
「・・・良いけど」
「それよりさ、キヨ。俺とふたりっきりなんて結構無い機会だよ?」
「あっても困るけどな」
「俺とふたりきりの夜を買うためにお姉さま方は大金を積むのに、友達だからってキヨはタダなんだよ?有り難く思ってよね」
「・・・いつか絶交しよう・・・そりゃどうも」
笑う一禾はいつもの一禾。何かあったのかやたら明るいけれど、それを聞いてやるほど染は器用ではないし、キヨは優しく出来てはいなかった。一禾はどうするのだろう、その如何しようもない思いを抱えて今日も、明るく笑っているからきっと多分今後もそうなのだろうと思う。これでは可哀想なのは一体どちらのほうなのか、判断に困る。しかし一禾に優しくするのは、それはどうなのだろう、そんなことを誰も求めてはいないような気がしている。おそらく一禾本人でさえも。
そんな顔しているから聞けないのだろうとは、流石に言えない。
「何も無いじゃん」
冷蔵庫に顔を突っ込んで、一禾は実に怪訝そうにそう言う。しかし、男のひとり暮らしなんてそんなものではないのだろうか、小言を言われながらキヨは別に悪いことをしているわけではないのにと、しかしそう反論するのも何だか怖い気がするので、それに屈する形にはなったが黙ったまま下唇を噛んだ。その癖何故かキヨの家にあった黒いシンプルなエプロンを一禾はきっちりと締め、何もない中から色々と取り出している。その姿はやはりキヨのアパートには全く馴染む気配がない。
「これじゃ何も出来ないね、買い物行こうか」
「・・・」
「ろくなもの食べてなさそうだもんね、キヨって」
「お前もうちょっと表現をオブラードに包めよ・・・はっきり言わないのが日本人の良いところだぞ?」
「文句言わないで取り敢えずお金出してくれる?」
これは新手の詐欺なのではないだろうかと思いながら、キヨは仕方なく学校に行くための鞄を探って財布を取り出し、一禾の手のひらに乗せた。すると一禾は何の躊躇も無くそれを開き、迷うことなく札だけを取り出し、他に用は無いと言いたげにキヨの方に放って投げ返してきた。キヨのほうはキヨのほうで、それをキャッチするだけで精一杯である。この男は何と言って部屋にいきなり上がりこんできて、一体何の権限で全財産をその右手に握っているのだろう。問い質してみたい気がするが、それも何だか怖い。一禾相手に口論して勝てる気がしないのは、中学からの刷り込みの結果なのかもしれない。
「さ、買い物行くよ。着替えて」
「・・・え、俺も行くの?」
「何言ってんの。俺に重いもの持たせる気?勇気あるよね、キヨって」
「すいません、一緒に行かせて頂きます」
「よろしい」
何が宜しいのか、何も宜しくない。言えていることより言えていないことのほうが、徐々に幅を占めてくる。キヨはのろのろ着替えながら何度もそう思ったが、一禾にそれを言うのはやはりどうも憚られるので黙っていた。何故かキヨは自分でも気が付かぬままに染に甘く、一禾に屈している。いつも染と一緒に居るせいで、一禾の横暴というのはその影に身を潜めていたが、こうしてふたりになってみると、中学高校時代に戻ったようでそれは懐かしくもあり、また苦い思い出でもあった。
「キヨって彼女居ないわけ」
「・・・居るように見えるか」
「何で?作れば良いじゃん」
「生憎俺は染やお前みたいにはモテないんだよ!」
「あ、そうなの?御免ねー」
「コイツ・・・」
「でもキヨって面倒見良いしさ、結構モテる性格していると思うんだけどな」
「元々面倒見なんて良くなかったよ。お前が俺に染を押し付けたから良くならざるを得なかったんだよ!」
「そうなんだ、俺って結構貢献しているんだね」
にこにこ笑う一禾を殴ってやりたい気持ちになるが、倍返しが怖くていつも諦めている。本当のことをいえば、完璧に高級品と分かるスーツを着こなした一禾の隣なんて歩きたくなかった。ただでさえ見劣りするだけに、気後れする。せめて気持ちの悪い柄の服でも着ていてくれればと思うが、一禾はセンスの良いパリッとしたシャツを大体いつも着ている。一禾は勿論顔の造作も綺麗に整っていたが、それと同等くらいにその雰囲気の良さというのが際立つ男前なのだろうとキヨは密かに考えていた。何でも許容してくれそうなその穏やかな笑みに、全て一禾の印象は引っ張られている。仕方なくキヨは一番綺麗なカットソーを引っ張って取り出し、最近買った一番高いジャケットを羽織った。何故一禾のために一張羅を着込まなければならないのか疑問には思ったが。
「それに染は俺に彼女作るなって言うし・・・」
「へー、何でだろ」
「自分が二の次になるのがイヤなんだろ。一禾には腐る程居るっつうのに、全く」
「・・・」
「・・・一禾?」
不意に黙った一禾が顔を上げる。翳っていて表情は良く分からないが、眉尻は確実に下がっていた。どうも今日は地雷を良く踏む日だ。オブラードに包んで物を言うべきは一禾ではなくて、自分だった。焦ったが、今頃焦ったってどうにもならなかった。
「俺、染ちゃんのこと二の次にしているかな」
「いや、そういう意味じゃねーよ、マジで」
「・・・」
「っていうか、あの、な」
「・・・なに」
「二の次にしても、良いと思うけど俺は」
「何で?酷くない?それ」
「酷くないと思うけど、ホラ、だってお前」
「なに」
「お前は一番に自分のことを考えるべきだろ」
「・・・―――」
『君はもっと、自分のことを気遣うべきかな。上月くん』
あの人の声がした。
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