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傷口にジントニックⅥ

キッチンに立つ姿は流石に様になっているが、やっぱり安アパートには全く似合っていないのだった。一禾にはもっとぴかぴかに磨き上げられた銀色に光るシンクとか、まっさらな白いタイルとか、そういうものが似つかわしい。そう思わせる一禾の雰囲気に、完全に引っ張られているのはキヨも同じことだった。袖口を掴んで思わずひやりとした。手のひらの下は銀に光る装飾の美しい時計だった。並んだアルファベッドはキヨも良く知っている大手のブランド名だが、多分一禾のそれは本物のそれで、間違い無く桁外れの値段がするのだと思って、手のひらだけでなく背筋もひやりとした。 「・・・いちか」 「なに、手伝ってくれるの?」 「いや、そうじゃなくて」 「じゃあなに、多分キヨあんまり役に立たないから座っていてくれたほうが俺的には・・・―――」 「そうじゃなくて!」 かなり大きな声で一禾の言葉を遮ると、流石に一禾も吃驚して目を丸くしているようだった。肩で大きく息を吐いて、キヨは自身を落ち着ける意味も込めてそうして一呼吸置いた。一禾の細身の体を覆うように付けられた、キヨの家にあったものだが、何故あったのかキヨ自身も良く分からない黒のエプロン、一禾の訪問を前もって知っていたかのような顔つきで、それは一禾の様相にきっちり馴染んでしまっている。全く馴染む努力すら見せようとしない安アパートとは全く違う。 「そうじゃなくて、だな」 「なに」 「お前その格好で料理すんのか・・・?」 「・・・その格好って・・・悪い?」 「いや、悪かないけど・・・」 いや、もしかしたら悪いのか、キヨは自身に尋ねてみたが良く分からないまま首だけを捻る。一禾は何か汚いものでも見るような目付きで、ひとりでぶつぶつ言っているキヨを見ていた。一禾は訪問時と同じ格好で、黒のコートとスーツのジャケットは流石に脱いでハリガネハンガーにかかっているが、他は皆そのままでその上から躊躇い無くエプロンをつけ、包丁を握っている。一見地味だがハイセンスのレジメンタルネクタイも、淡いブルーのシャツも、手首に巻き付くひやりとした時計も。 「脱げよ!そんで外せ!」 「・・・!」 こちらは一禾のために言ってやっているのに、一体何のつもりだとでも言いたげに、一禾は途端にそれに眉を顰めて怪訝な表情を浮かべる。 「何だよ、その顔は・・・」 「何・・・キヨ俺に裸エプロンやらせるつもりなの、とんだ変態だね!頭おかしいんじゃないの!」 「おかしいのはテメェの思考だっつーの!」 「こんなことじゃ染ちゃんも危ない目に遭っているに違いない!全く俺としたことが友人を見誤ったか・・・」 「・・・見誤ってるのは俺だ・・・いや、そうじゃなく。ホラ、油とか跳んだら如何すんだよ、こんな高そーなシャツに」 「あ、なに?そういうこと?そうならはじめからそう言ってよね、全く紛らわしい!」 「・・・すみません?」 「それにそんなの要らぬ心配だよ。汚れたら新しいもの買って貰えば良いんだし」 「・・・―――!」 「分かったら大人しく座っててね」 「お前の金銭感覚はどうなってんだよ・・・!」 「俺のじゃなくて彼女たちの、ね?」 「ね、じゃねーよ・・・」 どっと疲れてキヨは床にへたり込んだ。ここで引いてしまって本当に良いものなのか分からないが、一禾の歪んだ認識に指摘ばかり繰り返してもどうしようもないことを、キヨは過去の経験から痛いほど熟知している。一禾の言ったことは本当なのか、キヨの心配を他所に、一禾のほうは全く気にする様子はなく、軽快に包丁を扱っているからどうも本当臭い。世の中は間違っている。そんなことをしているうちに一禾の鼻歌が聞こえてきて、何でもないような気分になるから不思議だ。 貧相なローテーブルに所狭しと並べられた一禾の料理は絶品だったから、恩返しという言葉に思わず頷いてしまいそうだった。例えその材料費を出す結果になったとしても、やっぱり頷かざるを得ないのだった。一禾の料理が美味しいという話は染から散々聞かされてはいたものの、本物を目の前にするのは別の話だ。一禾が物を良く分かり切った大人の女の人に頭を撫でられるのは、きっとその美しい容貌のせいだけではないのだ。食器を洗わせられながら、溜め息を吐いて思う。 「美味しかった?」 「・・・悔しいけど」 「ありがと、作りがいがあるよ」 「お前さ、そっちの方に進めば良かったのに」 「え?」 「何か調理師とかになったら良かったじゃん、ウチみたいな三流大学来ないでさ」 「コラ、何てこと言うんだよ」 それに一禾は成績も抜群に良かった。部活にも入らないでアイツは塾に通い詰めていると、近眼だった優等生は憎憎しげに毒づいたものだった。だが実際は染云々で一禾の日常は塗り潰されており、それどころではなかったらしい。そのあたりの事情をキヨは良く知らなかったが、きっと近眼の優等生はキヨ以上に一禾のことを知らなかった。だからそんな勝手なことを言っていられた。軽口を叩きながら笑っていたから、その時一禾がどんな思いでそれを聞いていたかなんて、想像もつかなかった。 「また染がどーのって言うんだろうけどさ、お前は」 「だって嬉しかったんだもん。染ちゃんが大学に行くって言い出した時」 「・・・まぁ」 「染ちゃんのやりたいように、やらせてあげたかったんだ。間違ってるかな、俺」 振り返るとキッチンからは一禾の後頭部しか見えなくて、全くタイミングが悪過ぎるとキヨは小さく舌打ちをした。どうせ何でもない顔をしているには違いないのだが、今日の一禾はどうもおかしい。そんな一禾の相手をしているこちらは変に気を遣うばかりだ。何を言ったら良いのか考えている間の沈黙に耐えられなくなって、一番初めに思いついたことをそのまま口にした。 「お前は口を開けば染染って、自分ってものがねーのかよ」 「染ちゃんのことばっかり考えている俺って言うのが俺だよ」 「・・・あっそ、そりゃおアツイことで」 「おアツイのは俺だけだよ、残念だけど」 「・・・お前なぁ・・・」 「なに?」 「そういう返答に困るようなこと言うなよ・・・友達だろ・・・?」 「酷い言い草、慰めてくれる甲斐性ぐらい持ちなよね」 そう言って笑った一禾に、じゃあお前は持っているのかよと言いかけて、あぁコイツは多分持っている、という結論になったので何とも言い返せず、仕方なく下唇を噛む結果になった。一禾と口論するとこういうことが頻繁に起こって、結局嫌になるパターンが多かった。まるでそんなことを望んでいるように言うと、本当のことのカムフラージュになって良いとは思うけれど、その形の良い唇から語られる一体何が真実なのか、こちらからしたら判別の仕様が無い。一禾だってそれを見分けているのか、この調子ではそれも望み薄である。

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