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傷口にジントニック Ⅶ
流石に風呂上りにスーツを着るという奇行を一禾がしないで何か服を貸して、と言ってきたのでキヨはほっとしていた。出来るだけ変な服を着せてやろうと熱心に洋服箪笥を漁っていると、後ろからそれを一禾に実に冷ややかな目で見られていたので、結局その計画は実行前に破談になる。仕送りとバイト代で全てをまかなっているキヨの生活ぶりから考えると、おそらくそんなには家賃にお金をかけられないのだろう。シングルのベッドひとつで部屋は充分と思えるほど狭かった。ソファーを置くスペースが無いわけではないが、人がひとり眠れるくらいのソファーとなるとそれだけで部屋の中は身動きが取れなくなるので、結局スペースがないのと同じことなのだった。その前でふたりして途方に暮れているのは言うまでもない。
「で、俺はどこで眠れば良いのかな?」
「・・・どうぞベッドで寝てください」
「わぁ、有難う!流石キヨ!友達思いだね!」
「し、白々しい・・・!」
可愛らしく、本人はあくまで可愛らしく、胸の前で手を組んで首を傾げながら、酷い棒読みで一禾はそう言った。何でこの男と友達をやっているのか、キヨは一度真剣に考えるべきだと思った。そして考えを早く改めるべきだとの結論まで見えていた。ついでに言うと一禾が突然やって来てから、この思考を何度も巡っている。一禾は早々にベッドに潜り込み、硬いだの何だのと文句を漏らしている。隣に夏用の布団を敷きながら、本当はこちらのほうが文句を言いたい、と思いながらその口を噤む。
「ねー、キヨ」
「何だよ・・・」
「ホントに悲しくなるほど女っ気の無い部屋だよね。俺ちょっと心配になってきたよ」
「・・・そりゃどーも」
「いや、ホントに」
「・・・」
「連れ込んでもここじゃ二人で眠れないよね、もっと大きいベッド買った方が良いんじゃない?」
「彼女も居ないのにベッドの心配する俺って虚しくない?」
「そりゃそうか」
それにこの部屋にはシングルが限界なのだ。これ以上大きいものを買うと居住スペースを侵略することになり、彼女よりも何よりも、その前にそれは避けなければならない。せせこましく薄っぺらい布団に入り、今が秋口で本当に良かった、と裸足の甲を撫でた。これがもっと深い時期や、冬なんかだったらとても我慢出来なかっただろう。暖房のおかげで快適だった部屋の中も、肌と喉に悪いという一禾の独断に違いない判断で暖房は消されてしまっていて、部屋の中は随分寒々しかった。
「それに俺は今女どころじゃないの!」
「え、聞き捨てなら無いね、今の。なに?」
「色々あんだよ。青春?」
「・・・随分遅い青春だね」
「ほっとけ!」
キヨが笑って、その声が狭い部屋の中を木霊した。何となく大丈夫だと思っていた。笑い声の消えた部屋には沈黙が訪れたけれど、さっきほどそれを気にはしなくても良さそうだった。一禾のことを誰も気に掛けないのは、きっと一禾自身がそういう誰かの気遣いや優しい腕を拒絶しているからに違いなかった。自分ひとりで大丈夫なのだと一禾が思っているのか如何か定かではなかったが、傍目から見ていると一禾は充分一人で一個人として成り立っており、それがぶれることがなかったので、おそらくなかったので現状のようになってしまっているのだろう。薄暗い部屋の中、薄っぺらい布団の中で寝返りを打って、今日が終わったら一禾はきっといつもの一禾に戻っているのだろうと、思いながら目を閉じた。そして小言を言いながらきっと、美味い朝食にありつける。
「・・・あのさ、キヨ」
「・・・何だよ」
「あのね、俺」
「・・・?」
半分以上眠りかけていた頭、一禾の声が自棄に頭の中に響く。声のトーンは落されていて、いつもより低い。男前は出す声まで男前なのかと、自虐的に思って自嘲した。キヨの思考とは別のところで、一禾の声は真剣だった。まるで絞り出されたような音だった。
「俺、いつか染ちゃんのこと傷付けてしまう気がする」
「・・・なんで?」
「分かんない。でもきっと」
「・・・―――」
何か言わないといけないと思ったが、やはり何も浮かばないのだ、こういう時に限って。薄暗がりで一禾は腕で顔を覆って、唇を歪めた。それは恐ろしい想像だったし、キヨにはそんなこと想像しようもなかった。一禾は一禾のその言葉から一番遠い人間だった。だからそんな仮定の未来を笑うことも出来たが、唇が震えて音にはならない。音にしないと意味が無い。静寂が逆に煩いくらいで、何か言わなければいけないという思考のみに振り回されて、キヨは結局何にもそれに反応をすることが出来なかった。
「それでさ、もし」
「もし、そんなことがあって、キヨのところに染ちゃんが泣きついてきたとするじゃない」
「その時は・・・そうだなぁ」
「沢山、優しい言葉を掛けてあげてね」
「キヨは手を、握ってあげて」
有る筈も無い傷を舐めて、一禾はそれを癒そうとしている。見当違いだ、キヨは思った。まるで自分は手を離す言い方だ、その言い方は。キヨは一禾の眠っているベッドを見上げた。思ったより闇の侵食が早く、それが天井を食っている。そこで一禾がどんな顔をしているのか、キヨには分からなかった。だけどそれが一禾の奇行の答えだった。優しい言葉が欲しいのは本当に染なのか、手を握ってあげなくてはいけないのは本当に染なのか。奇行に答えはあっても、それに答えは無いのだ。
「大丈夫だ」
「・・・」
「そんなこと、心配すんなよ。そんなことにはならねぇよ」
「・・・そうかな」
「そうだ、染のこと一番に思ってんのはお前だろうが、大丈夫だよ」
「・・・そうだね、そうだ」
「・・・そうだよ」
一体誰を慰めているのか、キヨには全く分からなかった。分からなかったけれど、分からなかったなりに、きっちり慰めたつもりだった。証拠に自分に言い聞かせるように一禾はそう言って、ある程度は納得しているようだった。夜中には妙な不安に取り付かれることがある。それはきっとこの静けさのせいなのだ、きっとそうなのだ。そうして何かの誰かの、自分ではない他のもののせいにしておけば取り敢えずは大丈夫なのだ。それはいずれ安息を齎してくれるものになる。嘘でも良いからそれに癒される日が来るようになる。そんな未来が来るはずがない。来るはずがないと思って握った手のひらが汗ばんでいて、体が勝手にびくりと痙攣した。すると上ですんと鼻を啜る音が聞こえて、キヨは暗がりに目を凝らした。
「一禾?」
返事は無かった。
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