109 / 302

運命は裏切った

窓の外は雨が降っている。濡れた鞄の水滴を払って、脇に抱えた白衣に腕を通した。頭を下げるだけで余計なことは言わない女中の後に従って、その迷路のように良く出来た屋敷の中を奥へと案内される。呼び出されたのはいつものように緊急だった。全くここの人間はどうしてこうも我侭なのだろうと、卯月(ウヅキ)は首を回しながら考えた。完璧に掃除された板の間を何メートル歩いただろうか、障子の前に女中が腰を折った。頭を下げて、中に伏せる男の名前を仰々しく呼ぶ。 「失礼致します、春樹様」 「・・・」 「卯月先生がお越しで御座います」 「・・・分かった、入って」 「先生、どうぞ」 「・・・どうも」 春樹が伏せっているから診に来てやって欲しいと、春樹の世話係筆頭から電話があったのは今朝のことで、診察を午前中で切り上げ、何かといっては退屈そうに文句ばかり言う弟に後を任して卯月が白鳥本家にやって来たのは、12時を少し過ぎてからだった。女中はきっちりと閉められた障子を開けることなく、そのまま卯月に後を任せる格好で立ち去っていった。多分それ以上をあの女中は許されていないのだ、ときっちり結い上げられた白い項が黙って消えていくのを眺める。 面倒臭い、と正直思った。白鳥本家に来るのは、余り乗り気がしなかった、これもいつものことである。しかし、そうも言ってはいられない。弟は事情も良く分からず、文句ばかりを垂れ流しているのだが、卯月の苗字も一見しては見分けが付かない、白鳥であることがその証明でもある。分家である卯月の家は揃って医者という白鳥唯一の病院持ちの医者家系で、当然のように卯月も医者に仕立てられた。総合病院の院長である祖父を筆頭に、勤務医でありながら、白鳥専属医であることがまた当然のように纏わりついて離れない。卯月はもう一度溜め息を吐いて、障子に手をかけた。声をかけずにそこを開けると思った以上に中は暗かった。 「・・・よぉ、春樹」 薄紺の着物を着た春樹が真っ白い布団に挟まれて、そこが自分の居場所であるはずなのに、そこでどこか所要なさそうにしている。本当に具合が悪いのか、顔色は余り良くないが、この暗さでは良く分からなかった。取り敢えず卯月は部屋の電気を付け、まだ水滴を拭い切れていない鞄を畳に置き、春樹の布団の側に座った。男にしては線の細い、頼りないこの次男は昔から何かと言っては良く泣いていた。血色が悪く青白い頬に触れ、続いて額に触れる。特別温度は無さそうで、ひやりとしていた。 「熱は無ぇな」 「・・・」 「何だ、どうした。腹でも下したのかよ」 「・・・別に、食欲無いだけだし」 「あ、そ。秋乃に無理矢理寝とくように言われたのか?」 「まぁ、そんなとこ」 「あの女は心配性なんだよ。そんなことでいちいち俺をかり出すのは止めろっつーの」 何かもっと他のことを言いたそうに春樹が唇を僅かに開いて、諦めたようにまた閉じた。卯月はそれを不思議そうに眺める。卯月は家こそ分家だったが、その双眸は白鳥の本筋の人間と同じ美しい桃色をしていた。まだ若い癖にこうして本家に出入りを許されているのは、そのせいなのではと親戚にそして身内に良く陰口を叩かれている。卯月はそんなことを特に気にしているわけでもなさそうで、真意は分からないが第三者から見たらそんなことには特別興味がなさそうに見えていた。 「取り敢えず、まぁ脱げよ。一応診とくから」 「・・・うん」 「何だ、お前。ホント元気ねぇな、ちょっと痩せた?いや、やつれてんのか?」 「・・・あのさ、卯月」 「おぉ、何だよ」 無駄な肉の付いていない脇腹を撫でて、卯月はおおよそ医者らしくない表現をする。春樹とは5つしか違わないせいもあるのだろうが、春樹は昔から卯月のことを兄のように慕っていた。卯月は目のこともあり、昔から良く本家に出入りをしていたので、ふたりの間に往々として横たわるその立場という存在が分かり切った今でさえ、人目が無ければこうして本家の人間にこのような口調で語りかけることが多く、それは時々春樹に卯月が考えている以上の安堵を齎してくれた。 「今度帰ってきたら、兄貴のことも診てやって」 「・・・夏衣?何で」 「いや・・・あの、調子、悪そうだし・・・」 「ふーん・・・」 「・・・」 「分かった、覚えとく」 「・・・頼むよ、卯月」 知っている。項垂れる肩は完全に中の人間で、中の事情に当てられている。卯月はそれを知りながらも、敢えて知らない振りをする。そのほうが春樹の心には響くと信じているからだ、信じ切っているからだ。ちゃんと食べるようにと最後に忠告して、卯月は部屋を早々に出た。結局医者らしいことは何もしなかった。春樹に必要なのは医者などではないことを、そうして誰かが早く気付いてやるべきだと思った。懇願するような春樹の目のことは気がかりだが、卯月が気にしてもどうなる問題でもない。溜め息を吐いて、廊下を滑るように歩く。 「卯月先生」 中庭が濡れている。まだ雨は降り続いていた。そう呼ばれて振り返ると、廊下の向こうには狐目の男が立っている。男はカッチリとしたスーツを着ていて、卯月の目を捉えると如何にも人が良さそうににこりと笑った。その笑顔は余り好きではなかったが、卯月は立場が微妙な男に対して実に曖昧に笑うことしか出来ない。部屋から出るのを待っていたかのように、自棄にタイミングが良いのも妙に気にかかる。待ち構えていたかのような俊敏な動きに、完全にこちらは辟易している。 「何ですかね、斉藤さん」 「先生がお見えになるの、久しぶりだと思いまして」 「そうですね、まぁ大体父が来ますから」 「当主様が」 「・・・―――」 何か言おうとしたけれど、斉藤の勝ち誇ったような顔の前で卯月は動けなくて固まった。だからこの屋敷は嫌いなのだ。昔から陰鬱な空気しか流れていない。春樹が当てられて臥せるのも分かる。ここは生活をするところなどでは決して無いのだ。卯月はこういう時、本当に自分は分家の人間で良かったと思う。斉藤はそれを言いに来たのか、素早いはずだ。斉藤はひとつ呼吸を置いた。 「お呼びで御座います」 「・・・俺なんかに何の用なんですかね」 「さぁ、それは私の図りかねるところで御座います」 「・・・俺、結構忙しいんですけど」 「そうですか、それはご迷惑をお掛け致します」 全く悪く思っていない顔で、斉藤は笑った。仕方が無い、帰りが遅いと弟にまた文句を言われそうだが、白鳥相手に逆らえないのは周知の事実だ。面倒臭い。白鳥の眠る部屋まで案内する斉藤の背中をぼんやり眺めながら、卯月は何度目かの溜め息を吐いた。 お咎めを食らうのは目に見えている。

ともだちにシェアしよう!