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子猫をよろしく Ⅰ
「三者面談の日付、ちゃんと確認しておくように、以上」
担任の飯原はそう言い切って、教卓を軽快にひとつぽんと叩いて、書類を抱えて立ち去っていった。それにつられるようにして、先ほどまで静かに支配されていた教室の中は俄かに騒がしくなる。紅夜は静けさをまだ体の中に保ったまま、肘を付いてぼんやりと窓の外を眺めていた。手元には教師の言った、三者面談のプリントがぞんざいに置かれている。がたがたと隣近所で帰り支度を済ませた生徒たちが鞄を手に持ち、何やらどうでも良いことを口々に囁き合いながら、とても楽しそうに出て行った。それでも暫く紅夜は、窓の外から目を外さなかった。
「紅夜、三面、いつにするんだ?」
「・・・いつでもええわ。別に用事とか無いし・・・」
「じゃぁ一緒の日にしようぜ、金曜どう?」
「・・・ええけど・・・一緒にする意味あんの?」
駅までの道のりは長いようで短かった。嵐が隣で直せば良いのにプリントを持ったまま、自棄に早口に捲くし立てるのを話半分で聞きながら、紅夜は時折振り返って京義がきちんと後からついて来ているのを確認した。三者面談など本当は嫌悪すべき行事であるはずなのに、特に嵐なんかはそんなもの下らないと言って当日欠席するくらいの図太さを持ち合わせていそうだが、嵐の顔は自棄に楽しそうだ。それがどうも訝しくて、紅夜は眉間に皺を寄せたまま、那岐高校の生徒が溢れるいつもの道を、いつもの面子で連れ立って歩く。時折その生徒が煩い嵐と黙ったままの京義に意味深な視線を注いで、紅夜はそれを知らない振りをしている。
「アレだろ、お前ンとこ、オーナーが来るんだろ?」
「・・・ナツさん?」
「保護者代わりに来るんだろ?俺、一回顔見たかったんだよなぁ・・・」
「見てどうすんねん、っていうか誰に言われたか知らんけど、こうへんで」
「えぇ!」
何を楽しそうにしているのかと思っていたが、そんなことかと紅夜は呆れて溜め息を吐く。またも嵐は大声を上げて、更に周りの注目を集めていることに全く気付かない。それよりも相当ショックだったのか、暫く口をパクパクさせて、紅夜に向けられた指を震わせていた。その後ろで電柱に誤って額をぶつけたらしく無言で痛がっていた京義の腕を引っ張り、軌道修正をする。眠いからといって目を半分以上瞑って歩いているからだと、何回言っても京義は理解する様子がない。
「来ねぇのかよ!」
「来ぃひんわ」
「えぇー・・・」
「何をそんなにがっかりしてんねん・・・」
「だってさー・・・何か凄いらしいから一回見てみたかったんだよな、どんな奴なのか」
呆れて紅夜がそれに苦笑を浮かべるのに、嵐は溜め息を吐いて肩を落としてそしてようやく大人しくなった。隣の京義も額をぶつけて少しは目が覚めたのか、珍しくその赤く光る双眸を開いて、比較的しっかりとした足取りで歩いている。それにしても嵐の中で夏衣は如何いうものとして想像されているのか、人となりをそんなに話した訳でもないし、きっと大幅に誤解しているのだろうとは思ったが、面白かったので訂正は見送った。駅が近いせいか人口密度が急に高まる交差点、嵐ががっかりした表情を隠し切れぬまま、右手を上げるのに人ごみに負けないように大声で呼応して、嵐とはいつものようにここで別れた。
それを思えばホテルは位置だけは東京にあるといえども、随分と僻地に建てられているものだ。元々は宿泊用のホテルだったらしい話は前々から何度か耳にしているが、こんなところのホテルを幾ら不足しているからといって、一体誰が使うのだろうと、紅夜はその山道を登ったり下ったりするたびに思っていた。真っ白い外観に、控え目なポーチは美しくて気に入っているが、いかんせん立地条件の悪さは折り紙つきである。一体誰がここに建てようと思いそれを遂行してしまったのだろう、全く謎である。
ホテルにふたりが到着した時、ホテル脇にある駐車場には黒のカイエンの姿だけがなかった。一角のみ展示場のようになっているそこに在る車の種類を、紅夜は正確に把握していたわけではないが、視界の情報だけで一台足りないことは見て取れた。車のことは正直良く分からなかったが、そこに並ぶ車のどれもが無駄に美しいフォルムの左ハンドルであることから考えても、どれひとつお手頃な値段にはとても思えなかった。それは一禾と染は大学に行っていて、まだ帰っていないことをそして暗に意味している。自動扉を潜ってローファーをそこに脱ぐ。脱いだ形のまま放って置き、中に入ってしまう京義をちらりと目で追った後、紅夜は自分のものを揃えて、ついでにと思って京義のもきちんと揃えて端に退けて置いた。
そしてそれに礼の一つも言わないで、自棄にすたすたと先へ行ってしまった京義を追いかけて談話室に入ると、ダイニングのテーブルに夏衣が腰掛けているのが見えた。先に入った京義は床に鞄を放り出し、ソファーに寝転がってチャンネルを握っている。しっかり握っている割に、テレビは面白味のないニュースをやっており、その白い光が京義の半身で時折反射していた。
「お帰り、紅夜くん」
「ただいま、なぁ、ふたりはまだ帰ってへんの?」
「うん、まだみたい。そのうち帰ってくるんじゃない?」
「せやなー・・・」
いつもの調子で夏衣は特別気にした風でもなく、カロリーの高そうなチョコを挟んだクッキーに手を伸ばしながら、手元の本のページを捲った。今日のそれはどうも推理小説らしい。そういえば最近映画になった原作として注目されているので、何度かテレビで見たことがあった。紅夜は取り敢えず机の上に自身の鞄を下ろすと、床に転がっている京義の鞄に手を伸ばした。ひっくり返っているそれをえいと持ち上げると、ファスナーが開いたままだったのか、中身がどさどさと床に散らばった。
「あぁ!」
「・・・あらあら・・・」
「御免な、京義」
紅夜は慌てて床のものを拾い始めるが、京義は興味が無いのか、それにはちらりと一瞥くれただけで、すぐに視線はテレビに持っていかれた。夏衣も悠長に何事か言いながらも、屈んで紅夜を手伝い始めた。紅夜は忙しなく夏衣にもお礼を言いながら、そんなに多くのものではなかった京義の私物を鞄に詰め込んでゆく。弁当箱に手を伸ばして、これは一禾が帰ってきたら洗うから出しておかないと、と思いながら戻さずそのままカウンターに乗せた。
「あれ、紅夜くん」
「なに?」
「これなに?」
「・・・?」
まだ屈んでいたままの紅夜の目の前で夏衣がひらひらとさせたのは、先刻担任教師が念を押していた例のプリントだった。不意に嵐のがっかりした顔が浮かんだが、それには苦笑するしかない。紅夜は黙ってそれを夏衣から受け取った。京義の教科書やノートなんかと混ざって、一緒に鞄の中に押し込む。まるで元々無かったかのような所作に、夏衣はただ眉を顰めた。
「三者面談だって?行ったほうが良いのかな」
「ええって、他にも忙しい人は来うへんパターン多いから、ナツさんに迷惑かけられへんし」
「別に迷惑じゃないけどなー・・・」
「ええって、な、京義!」
ソファーの寝転がったままの京義は、しっかり握っていたチャンネルをいつの間にか床の上に落として、目を瞑って睡眠の中に居た。勿論そこから返事は無い。
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