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子猫をよろしく Ⅱ
「三者面談?」
それから暫くして、面白いほど予想通り帰って来た一禾は、帰ってくる途中に買って来たらしい食材一式を冷蔵庫に詰めると、出しておいた弁当箱を洗い出した。染の顔を見ると眠そうだった京義は、緩慢な動作で立ち上がり、いつの間にか談話室から姿を消していた。その染は京義が眠っていたソファーに腰掛け、チャンネルを握って熱心にザッピングを繰り返している。
「そう、何か来週あるらしいんだけど」
「良いじゃん、ナツ行ってあげなよ」
「ええって、一禾さんまで!」
「何でそんなに嫌がるのさー、俺が学校行くの嫌なのー・・・紅夜くん?」
「いや、そんなことやなくて」
「あぁ、それはあるね。俺だったらイヤ」
「酷い一禾!」
芝居がかった動作で夏衣が顔を覆うのに、一禾は非情に冷たい視線を向ける。いつものことだった。この調子ではここに居ても仕方ないし、ご飯まではまだ時間があるようだったし、部屋に上がって宿題になっていた数学の続きでもやろうかななどと思いながら、紅夜はダイニングテーブルの上に乗せたままだった自身の鞄を肩にかけた。視線を落せば、京義の鞄もそこにある。部屋に持って上がっていないのだ、おおよそ忘れていたのだろう。京義の普段の行いから推測するに、それはそんなに珍しいことではない。考えながらついでだからと京義のそれも掴んで持ち上げる、自分のそれよりそして相当にそれは軽い。本当に鞄本来の程度の重さしかそれは紅夜の肩にかからなく、それはいかに京義が不真面目に学校に通っているかを明らかにしている。おそらく中に入っているのは教科書ではなく、今絶賛練習中の楽譜だろう。
「なぁ、紅夜―」
「うん、何やねん・・・今度は染さん?」
「今度のドラマ、藤ヶ谷柚月 主演なんだって、記者会見やってるぜ」
「えぇー・・・染さん好きやったっけ?」
「だってさ、すげかっけーじゃん」
ニュースの間にある芸能ニュースを、染は毎日欠かさず楽しそうに見ている。紅夜には残念ながらその時間の楽しみ方が、今ひとつ理解出来ないままだ。それをお前が言うのかと、紅夜は呆れた視線を向けたが、テレビで愛敬を振り撒く男に、何故か夢中になって目を輝かせている染は、その紅夜の冷ややか過ぎる視線には御目出度いことで、全く気付く様子もない。染にはそういう少しミーハーなところがあり、それは時々俄かに染を低俗に見させていた。しかしそれくらいのほうが人間らしくて良いのではと、こと染に関してはそう思うことが自棄に多い事実に、紅夜はまだ気付くことが出来ない。
「えぇー、そうかなぁ。別に普通じゃん」
「そんなことねーし、ナツおかしいんじゃねぇの」
「おかしくないよ。俺には染ちゃんのほうが可愛く見えるけど」
「はい、はーい。染ちゃんに向かっていかがわしいこと言うの、止めてね」
敏感とも思える素早さで、一禾がキッチンから声を張り上げ、夏衣はそれに媚びたような微笑を浮かべた。染はそんな周囲の様子がいつもの日常の風景そのままだったからなのかもしれないが、それを全く気に掛けることもなく楽しそうにフラッシュを浴びる人気若手俳優の記者会見を眺めている。今から思えば、その日にことはそうしていつものように流れていって、特別に気にすることはなかった。その時そこに居た誰もがである。紅夜もそれにやれやれと首を振るだけで、談話室の扉を開けて出て行ってしまった。そうしてその時まで、思い出すことはなかったし、また覚えているとも思えなかった。
しかしそれは週を跨いだある日、全く誰にも前触れを感じさせずに突然としてそれはやって来た。その週から三者面談の関係で授業は午前中に終わり、面談のある生徒以外は早々に家に帰るように促されていた。しかし学校の中に残って部活に勤しむものや、新学校らしく勉強をしている生徒も少なくなく、学校内の密度は実際いつもとそれほど変わらなかった。ただ午前中にしか授業がないこの期間は、少しだけだれたような空気が何処かしら漏れたように集まりはじめているのも事実だった。冷たくなりかけた風を感じながら、紅夜は音楽室の窓枠に肘をかけて面談までの時間をぼんやりしながら潰していた。
俄かに外が騒がしいと気付いたのは、何故か京義がピアノの音を止めたからだった。振り返っても京義はピアノの椅子に座って、背筋をしゃんと伸ばしている。これはきっと覚醒しているのだろう、ピアノの時ばかりいつもこうである。紅夜がそれにわざとらしく溜め息を吐いても、京義のその本質が変ることはない。いつもの学校らしい穏やかな雰囲気に混ざって、何か異質な匂いがしている。京義もそれに勘付いているのだろうかと思ったが、京義は指をピアノから離したまま、何も言わずにそこに座っている。声をかけようと紅夜が窓枠から手を離した時だった。ガラガラと音楽室の扉が開けられ、京義は微動にしなかったが、紅夜は音のしたほうに反射的に首を回していた。扉の奥には女の子が立っている、確か同じクラスだった。
「あの、相原くん・・・と、あと、薄野くん」
「どうしたん、何かあったん?」
「何かあの、人が来てるみたいなんだけど」
「人?」
「兎に角来て、校門のところに居るみたい」
あ、と思うと女の子はスカートを翻して、紅夜の視界から消えてしまった。もしかしたらこの騒動は自分たちが発端なのか、しかし全く思い当たる節はない。学校では平穏無事に過ごしているつもりだった。尤もそう考えていたのは紅夜ただひとりで、紅夜を見守るクラスメイトは、相原は見た目こそ地味だが薄野や宮間を従えるほどの権力の持ち主なのだろうと密かに考えていた。しかし紅夜はその時お気楽にそんなことを考えながらも京義を促し、取り敢えず荷物を纏めて音楽室を出た。5階には残っている生徒は少なかったが、階段を降りていくと徐々に生徒の数は増してくる。それにつられて騒がしいと思っていたそれも俄かに浸透しているようで、生徒たちは何かに急かされるようにして、階段を下りていった。一体何が起こっているのか全く分からぬまま、紅夜とそれに完全に流される形で京義は靴を履き替え、校門に向かった。
「あ」
紅夜はひとつ愕然と声を上げ、隣の京義は黙っていたが、確実にこれは驚いている。校門には黒のベントレーが、明らかに邪魔になる形でこれ見よがしに止まっていた。その前に黒いスーツに白い手袋を嵌めた、ひとりの若い男が立っていた。その周りだけ生徒達が集まり、その男及びその隣で存在感を放っている高級車に皆目を奪われているのだろう。そのただ事ではない様子からも、おそらく皆が騒いでいるのはこれのことなのだろう。その上、今日は三者面談の日だ。一体誰の親なのだと、好奇心の目を向けているに違いない。紅夜は思ったが、立派な車の側に立っている男には全くの見覚えが無いし、こんな車を乗り回すような男はひとりしか知らないが、その男は今日大人しく大学に行っているはずであった。
「・・・一禾さん・・・?」
「あいつは今頃大学だろ」
「・・・やんなぁ・・・」
そうだ、その筈だ。再度確認をして、首を捻る。もしかしたらあの伝達をしてくれた女の子が、何かを取り違えたのかとも思った。そうだとすれば、何と傍迷惑なことだろう。紅夜がそんな風に頭を悩ませているその時、不意に車の側に立っていた男が、仰々しい動作で車の扉に手をかけ、それを開いた。本当にただの好奇心のまま、紅夜と京義は他の生徒と一緒になって、それに無遠慮な視線を投げかけていた。ややあってそこから黒のフォーマルシューズが顔を出し、すらりとした足が伸びて、やがて全貌が明らかになった。
「やぁ」
片手を上げてにこやかにこちらに手を振っていたのは、見間違えようもない、夏衣だった。
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