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子猫をよろしく Ⅲ

「な、ナツさん!?」 「来ちゃった」 黒塗りのベントレーから生徒達の好機の視線を全く気にしていないのか、気付いていないのか、颯爽と出て来た夏衣は、微笑を浮かべていつものようにおかえりとでも言うように、何でもないように手をひらひらと振った。夏衣は側に立つ無表情の男と同じようなスーツを着込み、肩までの社会人にしてみれば若干長いと思われる髪を後ろでひとつに束ね、いつもの大きめの黒縁眼鏡ではなく銀色の細い縁の比較的目立たない眼鏡をかけていた。そうして身なりを整えると、流石に元々端整な顔をしているだけはあり、息を飲むほどそれは在るべくしてそこに存在しているかのように、酷く美しく見えた。いつもホテルでお菓子ばかりを齧って詰まらぬことを言っている風には、とても見えずにただ戸惑う。ちらりと隣の京義に目をやると、京義はいつもの無表情で、夏衣のほうに興味無さそうな視線だけを遣っていた。それは京義のデフォルトの表情だったが、これでは京義が一体何を考えているのか、全く分からない。いつもは別段気にならないのだが、こういう時京義の心中を探ることが出来ずに、そこに同調することも自ずと出来なくなってくる。つまり味方がいない。 「どうしたん、ナツさん・・・えらい着飾って・・・」 「何だよー、三者面談なんでしょ、今日」 「・・・」 「だからホラ、俺一応保護者だしね!」 温和に歪められた夏衣の顔が、いつもとはやはりどこか違うように見えて、それはより一層紅夜を戸惑わせた。その時の夏衣の言動とは裏腹に、夏衣のことを保護者などと思ったことは実は一度も無いのだったが、面倒臭い書類の類はいつの間にか夏衣が処理してくれていることを、紅夜は一度も夏衣から明らかにされたことはなかったが、何となく知っている。それにしても、夏衣が三者面談のことを覚えていたのは意外だった。京義の荷物をぶちまけた時に見られたことは流石に紅夜も覚えていたが、それを夏衣が気にかけていた素振りは全くなかったので、確かにその時来るとは言っていたが、夏衣は酷く気分屋なところがあり、それもその場のノリだろうと思っていたのだったが、これでは如何も本人は本気だったようである。それともこれは夏衣の気紛れの延長なのだろうか、結果的にはどちらでも同じことだったが。 「いや、でも三面は午後からやし・・・」 「え、何だ、そうなの?」 「それにそんな車こんなとこ止めたらあかんやろ・・・」 「あ、そっかー・・・。じゃぁ喫茶店にでも入って時間潰そうっと、ふたりも来る?」 「え・・・」 不意に夏衣にそうふられて紅夜は思わず京義の顔を見やったが、いつものように京義は無表情だった。それに夏衣はにこりと笑って、相変わらず黙ったままの京義の肩をぽんぽんと叩いた。手袋をした男が黙ったまま後部座席の扉を開けて、頭を下げた格好のまま静止する。夏衣は自分で助手席の扉を開けて、そこからベントレーに乗り込んだ。もう一度紅夜は京義を伺うように表情を覗こうとしたが、京義は迷いのない足取りですたすたと開けられた扉から車に乗り込み、紅夜はそれに置いていかれないようにただ追いかけて乗り込んだ。何だが物凄いことになっている、ような気がする。くるりと振り向いて、扉が閉まる瞬間、その生徒の好奇心から発せられる無遠慮な視線に耐え切れずに、ただ生唾を飲み込んだ喉がごくりと鳴った。 「小牧、出して」 夏衣は全くそんなことを気にした素振りもなく、ただ素っ気無く男にそう言い放った。 そして何故か、スーツの男と正装の夏衣と一緒のテーブルに座って、カフェオレなどにストローを差している。スーツの男、夏衣は小牧と呼んでいたような気もするが、男は一言も喋らないでただじっとそこに座って殆ど動く気配がない。夏衣は夏衣で何やらにこにこといつもより楽しそうに頬を緩ませている。一体これは何なのだと思わざるを得ない。引き続き紅夜の頭の中は全く整理されることなく、ここまで成り行きに引っ張って来られている。目の前のおかしな光景に如何して良いのか分からずに、俯いたまま差したストローを銜えた。その隣で京義はいつも通り実に堂々としているのだから、余計に何と思って良いのか分からなかった。 「ナツさん・・・ひとつ聞いても・・・」 「良いよー、どうしたの?」 「ええと、隣の人は・・・」 沢山聞きたいことはあったのだが、取り敢えず紅夜は指差してはいけないと思って、手のひらをすすっと動かし、夏衣の隣に大人しく鎮座している小牧を差した。丁度その時タイミング悪くウエイトレスが、京義の頼んだ抹茶ラテ生クリーム添えを持って来て、何事も無いように京義の前にそれを置いたので、紅夜はそっちにも半分気を取られていた。しかし京義は相変わらず落ち着き払ったその横顔をぴくりとも動かさずに、太目のストローをどろりとした緑色の液体の中、浮いている生クリームの塊と一緒に掻き混ぜていた。 「あ、これ、小牧。俺の今日の運転手さん。ホラぁ、俺って運転下手糞でしょ?だから頼んだの」 「小牧です」 笑顔の夏衣とは対照的に、小牧は驚くほど無表情のままそう言って義務のように頭を下げた。 「・・・あ、どうも・・・相原です、夏衣さんにはお世話になって・・・」 「良いよー、そんなに畏まらなくても」 手をひらひらと振って、夏衣はにこにこと頬を緩ませる。小牧はその隣でまるで人形のように、一度ゆっくり瞬きをしただけだった。夏衣の友達なのだろうか、その割には余り親しげではなさそうである。そこで紅夜はふと気がついた。もうホテルに住み始めて随分と経つが、夏衣を尋ねてきたのはピンクの総レースのワンピースを着た、あの妙な女の子だけだ。そういえば自分はこの養父のことは何も知らないのだ。紅夜が向こうの家に居る時に、代理だという人間がひとり来ただけで、遠い親戚らしいが面識があったわけでもないのに、今更だが何故夏衣は自分をホテルに呼んでくれたのか、そしてあのホテルに如何してあの面子が揃っているのか。 「・・・でもなんで・・・」 「うん?」 「何で来てくれたん、ナツさん」 「だって行くって言ったじゃん、俺」 二言は無いよと、夏衣は首を振った。その夏衣は染のように危なげではなく、ちゃんとその両足を地に着けている雰囲気を意図的なのか無意識なのか、漂わせる。きちんとネクタイを締めて、髪も纏めていると余計に、ただそれは世の中の全てを分かり切って割り切った、大人のようにも見えたのだ。こんなに若くして、自分たちのような子どもを、一禾と染は大学生なのだから、子どもとは言い切れないのかもしれないが、一禾は兎も角染は完全にまだ子どもだ、そんな子どもを何人もあそこに集め、形はどうあれ居場所を与えてくれている。夏衣は何の目的があって、あのホテルを経営しているのだろうと考えながら、美しい色をした瞳を縁取る色の抜けた睫毛が時折動くのを、高揚した気持ちでただぼんやり眺めていた。 「有難う」 「・・・うん?」 「有難う、嬉しい」 「・・・うん、それは、良かった」 程無く安心したように、夏衣は正面に座るふたりに向かってなのか、ひとりごとなのか、聞こえるか聞こえないか程度の小さな声でそう呟いた。それには他の装飾されるべき感情が何ひとつも取り付いておらず、夏衣のその言葉は本当にそれだけで、夏衣の本位を嘘くさいほど表していた。 紅夜には苦い思い出がある。決まってこういう時、学校に保護者と名のつく人が、来たことは一度も無かった。人生のうち一度もだ。紅夜は比べることが出来ないから分からない。だけどそれは、それは喜ぶべきことなのではないかと、銀色のフレームの奥で夏衣が笑うのを見ながら一緒に頬を綻ばせて、思っていた。思わずにはいられなかった。隣で京義がずずっと音を立てて、生クリームを消費していく。思えばそこにはひとつも異質なものなど、はじめからひとつも在りはしなかったのだ。

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