113 / 302
子猫をよろしく Ⅳ
それにしても、不意に夏衣の携帯が鳴って、ちょっと出てくるねと自然な動作でここに自分たちを残し、行ってしまったことには何も言えなかった。すぐ戻ってくるから待っていてと言われても、一体どうしたら良いのだと、紅夜は冷や汗をかきながら、普通の何処にでもある喫茶店の中、ただならぬ緊張感とともにただ背筋をびしっと伸ばすことに努めていた。しかしそんな紅夜の葛藤を全く読み取る努力をしない京義は、その隣でドロドロに溶けてしまった生クリームと抹茶の混じり合った液体を吸い込むことに熱心になっている。こういう時京義のこの周りを全く気にしない性格が羨ましいと、紅夜は下唇を噛んで思うのだった。自分には真似出来ないし、おそらく真似してはいけない行為なのだろうが、京義のようだと少しは楽に構えられるのだろうと思うと、思わず口から溜め息が零れそうになって、慌ててそれを飲み込む。全く緊張感のない京義のぼんやりした表情が、目の端に映って何だかそれに辟易している自分もそこには確実に居た。
それもその筈で、夏衣が側に居ても全くこちらに気を許す様子のない、能面のように無表情な小牧が、そこに置物のように残されていたからである。京義は普段から余り饒舌なほうではないと知っているし、勿論初対面の人間に対して気遣いをするなどという行為とは、掛け離れた人間であることも分かっている。小牧のことは初見である以上何とも言えないが、おそらくは京義と同類の人間なのだろうと、紅夜は失礼にもほぼ決め付けてかかっていた。もしかしたら京義よりも重症である可能性が高いとまで思っていた。それくらいその時の小牧の表情は硬く、京義以上にそこからは何も読み取ることが出来なかった。小牧自身がそれを頑なに拒否している雰囲気さえ、そこからは感じられた。必然的に紅夜がこの場を取り持たなければならないことになることは、この空気を見れば明らかであった。しかし他のテーブルから他愛無い会話が聞こえてくるばかりで、そこはいつの間にか随分と静かになっていた。そういえば、夏衣が居た時だって、紅夜は夏衣とばかり話していた。これでは駄目だと思い立ち、何の正義感からなのか、紅夜は思い切って小牧に視線をやった。
「・・・あの!」
「・・・?」
「小牧さんは・・・あの、夏衣さんとはどういうお知り合いなんですか・・・?」
その時紅夜の口から出て来たのは、単純に最初に立ち返った疑問だったが、小牧はそれを聞いて特別気を悪くした様子もなく、といってもその無表情のまま一度ゆっくりと瞬きをした。癖なのかもしれない、小牧はこちらがじれったいと思うほどゆっくりと目蓋を閉じ、そしてまた同じ時間を消費しながら、目蓋を開ける。紅夜は小牧が黙って紅夜の質問を咀嚼している間、ただそれをじっとしながら待っていた。京義はその隣でまるで目の前で行われていることと自分は無関係であるとでも言いたげに、底の見えたカップを持ち上げていた。勿論そんな京義に紅夜のほうも何か要求することは諦めていた。
「夏衣様は俺の上司です」
「・・・上司・・・」
ややあって小牧が口を開くと、夏衣からは想像も出来ない言葉がそこから飛び出した。小牧の声は成人男性のそれより若干高く、やや乾いて聞こえた。見た目よりずっと若い声だった。小牧のしっかりとした雰囲気が、小牧を歳相応に見せていないのかもしれない。驚いて紅夜は鸚鵡返しにそれを呟く。小牧はそれに分かり辛い動作でひとつ頷いて、何か良くないことの前触れのように目を伏せた。如何やら聞き間違いなどではなさそうであるが、夏衣が上司であるという小牧の言葉はとても信じられなかった。夏衣は日がな一日中、ホテルに居るらしい。紅夜だって見張っているわけではないから確かなことは分からないが、家を出る前には既に起き出して居て、帰って来た時もやはり同じところに座って、面倒臭そうに本のページを捲っているのが平常のこと。その夏衣に一番上司などという言葉は似合わないのではないだろうか、少なくともその時紅夜はそう思った。
「・・・なぁ、京義」
「・・・」
「ナツさんって働いてるんやろうか・・・」
「知らねぇ」
もう残りがないと分かると底を突くことを諦めた京義は、一転眠そうに欠伸をして喫茶店のソファーの上、落ち着けるポジションをごそごそと動きながら探っている。まさかここで寝るつもりかと、紅夜は青ざめて思ったが、京義にそんな常識振りかざして叫んでも、聞き入れて貰えないことぐらいは実証済みだった。だからそれには何の文句も言わないで、紅夜はそっと京義のほうに体を寄せ、小牧には聞こえないように小さな声で、殆ど耳打ちのような形でそう言った。まさかこれを小牧本人に確かめられないと思っての行為だったが、京義は全くこちらに気を遣う様子も見せずに、それを一刀両断そう切り捨てると、首を固定しすっと目を閉じてしまった。勿論京義が知っているなどとは、殆ど思っていない。京義だっておそらくは、夏衣に対しての情報を紅夜以上に持っているとは思えない。京義は一年もあそこに居るらしいが、普段の生活ぶりから考えてみても、他の住人に対して本当にただ興味がないという理由からだろうとは推測出来るが、全く干渉する気配がない。確かに当てにはならないと思っていたし、当てにしてはいけないとは思っていたが、それ以上に京義は非協力的過ぎる。
(・・・いや・・・そうやないやろ・・・!)
流石の紅夜もそれには怒りに震えて、京義の肩を揺すって少々怒鳴ることになると予想されるが起こそうと思ったが、小牧の手前でここは多くの人目がある単なる学校前の喫茶店である。そんな奇行を犯して、出入り禁止になったらたまったものではない。仕方なく握った拳をテーブルの下に隠して、紅夜は諦めてひとつ溜め息を吐いた。京義は全くそんな紅夜の心内を察するわけでもなく、抜群に寝つきの良い彼はきっともう夢の中を漂っている。規則正しい寝息が隣から僅かに聞こえてくるのに、そう時間はかからなかった。すると小牧が今まで伏せていた目をまたしても緩慢な動作で、こちらがじれったいほどゆっくり上げた。紅夜はそれに心中を見破られたような気がして、冷たい汗が背筋に伝うのを感じた。小牧が夏衣といかなる関係なのか、未だに良く分からないが余りこの人の前で夏衣を批判出来ないことは良く分かった。
「夏衣様があなたがたとどうして一緒に居るのか、俺には良く分かりません」
「・・・え・・・?」
「今日は無理を言って付いて来ました、それが少しでも分かるかと思ったので」
「・・・はぁ・・・」
「来て良かったです」
今まで無表情で押し黙っていた小牧は、突然何かを決意したように突然口を割ると、紅夜がそれに一体何と言って良いのか分からないまま、曖昧な相槌を打つのを全く気にする素振りもなく、ただそう満足げに言い放った。そこまで言い終わると紅夜がぽかんとして、京義がその隣でうつらうつらしているのにも拘らず、小牧は殆ど能面に近かった表情を変え、少しだけ頬を綻ばせた。そしてそれは先ほど良かった、と言った夏衣の微笑に少し似ている、兎も角紅夜にはそう思えた。この人は本気でそう思って、本気でそう言っている。嘘や偽りはその中には含まれる余地がないのだと、何故か確信的に思った。紅夜はそれに何か言わなければいけないと思った。自分もそれに似合うべき言葉を何か選び出して言わなければいけないと思ったが、殆ど頭の中は白紙だった。
「夏衣様はここでは凄く楽しそうに見える、俺にはそれがとても嬉しい」
「・・・」
「あのひとが幸せな場所がひとつでもあって、良かった、本当に良かった」
「・・・小牧さん」
口から出たそれが小さく掠れて、自分でも吃驚するくらい酷く頼りない響きを持って空中を漂っている。小牧はそっと目頭を押えて、すんと鼻を啜った。紅夜はそれを見ながら、それに心臓をぎゅっと掴まれた思いだった。見ていて妙に切なくなるような物言いをする人だとも同時に思ったが、小牧のそれが一体他の何を意味しているのか、そこまでを紅夜はそこから感じることは出来なかった。本当のことを言えば、紅夜には何も分からなかった。何も知らないから、小牧が言っていることが、良く分からなかった。だけど小牧が懸命に何かを伝えようとしていることは分かる、出会ったばかりの赤の他人に。正体の分からぬそれに心臓をただ掴まれる。途端に息苦しくなるのに、成す術も無く途方に暮れていた。
「有難う」
「・・・―――」
聞きたいことは他にも沢山あったはずだったのに、小牧がそう言って今度ははっきりと分かるように笑うのに、紅夜はその時喉に何か詰まってしまったかのように何も言えなかった。言うべき言葉は元々なかったのかもしれないなんて、思ってしまうくらいに。
ともだちにシェアしよう!