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子猫をよろしく Ⅴ

「いってらっしゃいませ」 変わらず仰々しく小牧がそう言って、ぴかぴかに眩しく光る漆黒のベントレーの側で頭を下げるのに、夏衣は実ににこやかに笑いながら手を振っただけだった。一体此処の関係は如何なっているのか、結局のところ良く分からないままだった。紅夜の心中は複雑だったが、先ほど喫茶店内で見た目頭を押えた小牧の姿を思い出す限り、きっと自分なんかが心配しなければならないことにはならないのだろうと、紅夜はまた一方ではそう思っていた。夏衣は大人だ。背筋を真っ直ぐ伸ばして、高級そうな匂いのするスーツの裾を翻し、磨き上げられた黒のフォーマルシューズでアスファルトを踏み締め歩く姿には、全く迷いが感じられない。夏衣は大人だ。紅夜が知っているどんな大人よりも、そして時折白々しいほどそれらしい。 時間が程無く迫るので、黒光りする異様に目立つベントレーを学校内にもう一度戻すことを夏衣にやんわり断わりを入れると、夏衣はあっけなくそれを承諾し、小牧とベントレーを喫茶店に残したまま、三人はそこを立ち去ることになった。勿論なのか如何なのか分からなかったが、紅夜の予想した通り、そして小牧はそれに文句のひとつも漏らさずに、ただ少し目を伏せてはいと一言でそれを承諾しただけだった。夏衣と紅夜は眠そうな京義を半ば引き摺る格好で、学校に戻っていた。目と鼻の先に鎮座する学校は、いつの間にか不穏な空気から遠ざけられて、いつもの静寂が戻っているようだったが、三人が校門を潜ると、残っていた生徒の好奇の目は否応なく隣の夏衣に注がれて、紅夜はそれを背中に痛いほど感じながら、それから逃れるように若干俯きながら歩くしかなかった。しかし、小脇に京義を抱える夏衣はその無遠慮な視線に、自棄に愛想良く振舞っている。それが尚更夏衣を目立たせていることに、そして何故か男は気付いていない。 「・・・ナツさん・・・もっと大人しゅうしてくれる・・・?」 「何で、紅夜くんの友達でしょ。仏頂面は不味いんじゃない」 「・・・いや・・・そうやないひとのほうが遥かに多いっちゅうか・・・」 「そうなの?何だ、皆見てくるから友達なんだと思っちゃった」 「いや、それは・・・」 確かにこの三者面談の時期に、これ見よがしに部外者が隣を歩いているなんて、親以外の誰でもない解釈に当然なるだろう。その心理は流石に紅夜にも良く分かる。しかし、25歳の夏衣がこの若さでまさか紅夜や京義の父親であるわけでもないし、保護者代理としても学校に出向いてくるなんて、一体どういう関係だと思われているに違いない。加えてこの造形美だ、皆の視線を集めるのも頷ける。紅夜は溜め息を吐くしかなかった。出来ることなら校内の生徒にこれ以上好機の孕んだ視線を向けられるのは、出来るだけ避けたいのが事実だった。しかしこうなることは成り行き上避けられない仕方の無いことだと、どうして気付かなかったのだろう。どうして手放しに嬉しいなどと、悠長なことを考えられていたのだろう。 「紅夜!」 「!」 その時運悪く、紅夜の耳に良く知った声が飛び込んできて、紅夜は現実逃避から一気に引き戻され、元々青かった顔を更に青ざめることになった。振り返ると、そこには予想した通り嵐が何故か自棄にいい笑顔で立っていた。それに更に背筋を撫でられる。思わず手を広げて後ろの存在を隠そうとしたが、小走りでこちらに向かってくる嵐の顔はいつもより期待に満ち溢れていて、思わず紅夜は無意識的にそれから目を反らすことになる。そして手を広げた程度で、夏衣の存在がこの見晴らしのいい廊下から消えるはずもなく、後から考えても咄嗟の行動だったとはいえ、紅夜のそれは全くの無意味だった。 「何だよ、お前来てたんじゃん!」 「い、いや・・・いや、あの・・・!」 「君、紅夜くんの友達?」 ひぃと口から悲鳴が漏れるのに、夏衣が後ろから肩をぽんぽんと叩いてきて、振り返ると夏衣も何故か楽しそうだった。嵐の視線が自棄に自然な動作を伴ってすっとずれて、ややあってから音を発した夏衣を捉える。夏衣はそれににこにこと人好きのする笑顔で、無言だが確かに呼応している。暫く嵐は夏衣のほうを無遠慮とも思える間凝視していて、何も言わなかった。その間紅夜がはらはらしていたのは、言うまでもないことである。大幅に誤解しているに違いないとは思っていたが、それを何故面白そうだからという快楽に走った考えで放置していたのか、紅夜はその時非常に後悔したがもう遅かった。 「あ、嵐・・・?」 「・・・もしかして、オーナーの・・・」 「白鳥夏衣です、ふたりがお世話になっているようだね」 「・・・―――」 きらきらとその見慣れている顔が、綻ぶさまがなぜか今日に限って自棄に眩しい。今日の夏衣は一貫して、どうもいつもと様相が違うだけに随分とおかしく見える。これが変に良い風にだから、戸惑ってしまって余計に始末が悪いのだ。夏衣にそれを問い質してみても、いつもと同じだと平然と言われたのでそれ以上他に何と言ったら良いのか分からず、それに曖昧な返事しか出来なかった。これは一体何の魔法なのだと思いながらも、紅夜はその無害なきらきらに殆ど当てられて目を細めていた。すると何の前触れもなく突然ぐいと嵐にネクタイを引っ張られて、紅夜は前につんのめった。何をするのだと憤慨したまま咎めようと思い顔を上げる。もしかしたら口からは半分以上批判の言葉が出ていたのかもしれない。しかし嵐は全くお構いなしに、自棄に深刻そうな表情でこちらを覗き込んでくる。それに紅夜は嫌な予感しかしなかった。 「な、何やねん・・・」 「お前こそ何なんだよ、お前らの話聞いてて、俺ずっと髭面の太ったジジイだと思ってたけど・・・」 「・・・いや、そんなこと一度も言ったことな・・・―――」 「何だよ、オーナーってこれかよ、超美人じゃん!」 「いや、いつもはもっと普通なんやで、今日なんかおかしい・・・」 しかし嵐は興奮気味に、紅夜の話を半分以上聞き流しているようで、頬を高潮させて声は押えたままだったが、そう捲くし立てた。それを聞いているのかいないのか、夏衣はそこから少しはなれた場所からどこか楽しそうに眼を細めてこちらを見ている。いつもはもっとだらしなく子どもっぽい。少なくとも紅夜の見解ではそうである。しかしこれではどちらが夏衣の本質なのか、分からなくて混乱するばかりだと、紅夜は嵐のそれを否定しながら思い、ひとつ大きく溜め息を吐いた。 「・・・そや、嵐は家の人来てへんの?」 「あぁ、うん。俺んとこはパスだって。仕事忙しいっぽいんだよなー、まぁ良いけど」 「そう、なん・・・」 「ホントマジで。今日もだるいし帰ろうかと思ったけど、残っていて正解だったな!」 「・・・―――」 笑顔で肩を叩かれ、それには複雑だったが、紅夜はただ思った。少し前までは嵐と同じ境遇に、また自分も居たのだということを。同じというとそれには少し御幣があるが、紅夜は何でもないことのように笑い飛ばした嵐に、少しだけ胸の突かれる思いがした。もう面談は終わったらしい嵐が手を振って廊下の端に消えていくのを、見送りながらそんなことを考えていた。 「・・・ちょっと吃驚しちゃった」 「え?」 同じようにそれを目で追っていたらしい夏衣がそう言葉にしたのは、完全に嵐が視界から消えてしまった後だった。反射的に聞き返し、振り返ると夏衣はまだ廊下の向こうをぼんやりと見ているようだった。 「だって彼、ちょっと不良っぽくない?」 「あぁ・・・でもあれでええ奴なんやで、嵐」 「でも紅夜くんの友達なら、きっと眼鏡の秀才だと思ってたんだけどなぁ・・・」 「はは、お互い酷い誤解やな、そりゃ」 相変わらず、夏衣の笑顔はいつもよりきらきらとして、どこか楽しそうに見える。

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