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子猫をよろしく Ⅵ
夏衣はもしかしたら憎んでいたのかもしれない。
「余計なことはまさか言わないよね、小牧」
「・・・―――」
男の目は時々鋭く、こちらの体を貫通させようするその尖りを決して隠すことなく、敵意とも嫌悪とも取れる方法で、此方にあからさまな邪念を顰めて向けられる。それに毎度黙るという方法でしか己を守れない自らに辟易するが、それでもその選択をするしかない、ことに迫られると。夏衣は目尻を下げて人の良さそうな顔をして笑っているが、その桃色の瞳の中は全く揺らいでいないし、そこにまさか歓喜など微塵も潜ませていない。表面だけで器用に笑うようになったのはいつからなのだろう。夏衣のそういう仕草や表情を見つけるたびに悲しくなるばかりで、執拗に胸がきりきり痛むのだった。どうしてあんなどこの出とも分からぬ子供たちが、夏衣に大切にされているのか、小牧には分からない。分からないがそれを夏衣に直接問い質す勇気もなくて、それにはいつものように俯くだけだった。夏衣がそんな強い言葉と瞳で一体自分に何を求めているのか、小牧にはそれも分からない。もしかしたら何も求めていないのかもしれない、自分は夏衣にどんな尺度でも当てにされていないのかもしれないと思うと、思っただけのそれに何故か背筋の寒い思いがした。
「・・・言っておりません」
「そう、もう多分会わせることはないと思うけれど、余計なことは言わないでよ」
「余計なこととは、何でしょうか」
黒のベントレーのボンネットに腰掛けて、所用無さそうにしていた夏衣は、分からないのか、と目の奥だけで此方に問いかけてくる。それにあくまで白を切って、小牧は背筋を上から引っ張られているかのようにしゃんと伸ばした。辺りは暮れかかっていて、遠くで学生服を着た子どもたちの行きかう声が響いている。そろそろ帰らなければならない事くらい、ふたりとも良く分かっていた。三者面談という小牧にとっては良く分からない行事も終了したらしく、夏衣がひとりでふらりと帰って来たのは先ほどのことである。帰って来た夏衣は、小牧の前でもう笑ってはいなかった。それはここで笑う必要などないからである。分からなかった。ただどんな形であれ、あの子ども達は夏衣に愛されているのだと思った。他の一体どんな人間達が欲しがっても与えられなかったものを、あの子ども達は無邪気な顔をして与えられているのだ。それはもう夏衣のすぐ側で、どうして自分ではないのか、自分はそこに取って代わる存在にはなれないのか、小牧は考えながら俯いた。
「俺はここでは白鳥じゃないんだ、ただのオーナー、あの子達の保護者」
「・・・」
「意味は分かるよね、小牧」
「・・・はい」
短く返答を返すと、夏衣はやはり器用に表面のみでそれに笑って見せた。そしてすっと手を伸ばして、髪を縛っていた黒の紐を解いた。今まできっちり縛られていたとは思えない、全く表面に癖のついていない髪が柔らかく吹く風に揺れる。肩までの長めのそれを夏衣は左手でぐしゃぐしゃと掻き混ぜたが、次の瞬間にはまたするりと指を離れて、それは夏衣の意思とは無関係の強さを見せる。
「君のことは信用しているよ、一応」
「・・・有難う御座います」
含みのある言い方に小牧は反論出来ない。夏衣の後ろの権力に、ただ完全に屈服している。それは夏衣も良く分かっている。男が指先ひとつで小牧に命令すれば、ただ完全に翻る簡単な信頼だとも、それは単に意味している。誰もあの男には敵わないのだ、小牧だけではなくそこに所属するひとびとの誰も、だから夏衣は諦めている。諦観して刹那的になって、それでも何故か悲しいほどの美しさで、そこに息衝いているのだった。本家のことは良く分からない、小牧が東方所属なせいもあり、良く知らされていないのだ。違うともそうだとも言えないのはただ、そのせいだと自分に言い訳をする。そんな弱弱しい方法で、小牧は夏衣ではなく自分自身を守っている。会ったことすらない、顔すら見たことのない、存在すら危ぶまれるその男に、小牧はそれでも逆らえない。どんな歪んだ思いでも、それに動かされることは今までなく、そしておそらくこれからもない。
「帰ろうか」
ややあって夏衣が不意にそう言い、もうその顔には表面的な笑みすら浮かんでいなかった。
「はい」
そう答えるしかない。小牧の前にいつも選択肢はひとつしか用意されていない。だから小牧はそれに逆らうことなくそれを単純作業で選ぶことしか出来ない。下唇を噛んでも痛いだけで、そこから血が出ることはない。それが悲しいのか悔しいのか、小牧には良く分からない。
そこでの夏衣の肩書きは東方事務所の職員になっている。ただの職員でそこの所長や支部長ではないことが、白鳥の表に出たがらない本質を如実に示していた。夏衣が東方本社にやって来ることは三ヶ月に一度くらいで、それは全て本家に帰った後ただ顔を見に来る程度の寄り道だった。そこで働く職員は小牧も含めて全く顔色を変えずに夏衣を受け入れ、そして夏衣が出て行くのを黙って見送る。皆がその下で何を思っているのか、誰も口にしないせいで明るみにはならない。この調子では永遠に闇に包まれたままだろう。けれど小牧は考える。その能面みたいな顔の下で考える。職員達が夏衣の話をすることは殆どないから、夏衣の評判というものがいまひとつ表に出てこない。しかしそれは皆が皆同じ尺度で、夏衣のこと思っているからだろうと感じる。しかし夏衣本人にそれを気付かれないために、全員能面みたいな表情を覚えてしまったのだ。
「いつも通りです、お元気そうでした」
『そうか、妙な動きはしていないな』
「有りません、いつもと同じです」
『分かった。ご苦労だった』
「・・・はい」
電話の向こうで男の淡々とした声が不意に途切れて、通話もそれと同時に終わる音がする。本家で暮らす人々が一体何を考えているのか分からないが、何故か夏衣には妙に監視の強いところがある。白鳥嫡男のことがそんなに心配ならば、本家に置いておけば良いものを、何故か夏衣は時折本家には帰りはするが、一応それなりの日数を東京にあるホテルプラチナと呼ばれるアパートで過ごしているらしかった。本家の連中はあのひとがあんな痛々しい体で、一体何が出来ると思っているのか、全く小牧には理解出来ない。白い受話器をガチリと降ろすと、小牧のすることはこれで終わる。いつも通りとは何だろう、自らの口から発せられた何の意味も無い言葉を反芻する。夏衣には似つかわしくない言葉だ。そもそも自分は夏衣のいつもを知っているほど、夏衣と一緒にいるわけではない。いつも通り、いつも通り、いつも夏衣はあんな風なのだろうか、あんな風に悲しそうで寂しそうで、何もかも諦めていて、ただ何かが風化するのをずっと同じ場所に立って、ずっと待っている。待っているばかりでその指では何もしないで、いつの間にか貼り付けてしまった表面の皮の下で、何を思っているのか分からない。
(・・・だけどあの人は、あそこで楽しそうにしてらっしゃった・・・)
小牧には分からない。だけど確かなこともある。夏衣がそこに固執している意味なら分かる。本家がどうして夏衣にホテルでの自由を許しているのか分からない、いや本当は許してなどいないのかもしれない。夏衣は知っているのだろうか、自らの指で出来ることだってあるのだということを、ただそれをするのが億劫だから、怠惰のままあそこに蹲っているだけなのだろうか、本当は。出来ないふりをして泣いてばかりいて、誰かの助けを待っているだけ、そう思うと酷く打算的にも思える計画的な微笑は、こちらの息を止めるほど美しかった。結局はそこに行き付く。小牧は夏衣ほど美しく出来ている人間を知らない。
小牧には分からない。夏衣が余計なことを語らないせいで、小牧には良く分からない。だけどきっと、夏衣を取り巻く様々な人も同じように思っている。夏衣は誰にも語らない、だから誰にも理解されないし、誰にも救われない。だけど本当はそれで、夏衣は満足しているのかもしれない。
あの形の良い口角を少し上げるだけで。
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