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子猫をよろしく Ⅶ
教室の扉は立て付けが悪いのか古いせいなのか、どの扉も大体自棄にガラガラと大きな音を立てて開くことが多い。まず紅夜が静まり返った廊下に降り立ち、それから遅れて京義も同じ扉から出て来た。開けたまま平然と廊下を進む京義の後ろで、紅夜は同じ音を立てて扉を閉めていた。三者面談は無事とはとても言えない方法でいつの間にか終わり、京義がまだピアノを弾くというのに、小牧を待たせているからと夏衣は先刻戻って行った。ひとりで戻らせて大丈夫かと、紅夜は少しだけ思ったが止める間もなく、夏衣はいい笑顔で去っていったので仕様がない。何もなかったことを祈るしかない。
「なぁ、京義」
そんな紅夜の行動を全く振り返る様子も、気遣う様子も見せない京義は、既にすたすたと廊下を歩いて行ってしまっている。いつものことなのでそれに文句は言わず、勿論文句など言っても聞き入って貰えないことも承知のまま、紅夜は京義の背中に向かって名前を呼びながら追いかけた。
「三面どうやった?」
「・・・別に」
京義はボキャブラリーが少な過ぎると、その背中に苛立たしさとともに思いながら、何だかそれには慣れ切ってしまっている自分もいる。そしてもう少し、コミュニケーションというものを理解した方が良いのだ、おそらく。それ以上は何も言わずに淡々とまるでこなさねばならならい義務のように京義が階段を下りるのに、紅夜はその背中に追いつけなくてまだ追いかける。今は一応目が開いている状態だが、いつまた閉じるか分からない。その見た目以上に危なげな背中を追いかける。だけど京義がふらついて今倒れても、助ける術などないのにと思いながらも距離が開くのを何となく恐れている。
「俺の担任女の先生やねんかー」
「それがずーっとナツさん見てぽーっとしてんねんもん、俺の話なんて全然してくれへんで。何かもう俺のほうが恥ずかしいわ」
「最後に紅夜くんは頭が良いから大丈夫よねって、それだけやで。大丈夫って、何が大丈夫やと思ってんねん。意味分からんわ」
返答がないことは分かっていた。一々相槌を打つほどこちらに気を遣うことが出来ないのも知っている。だけどその無言の背中に、紅夜は飽きることなく言葉をぶつける。10回ぶつけて1回返ってくれば良いほうなのだ。いつか談話室でそれを漏らした時、一禾が自棄に真剣な顔をしてそれは問題なのではないかと言っていたが、慣れれば決して京義が無視をしているわけではないことも分かっているから、それでも良いのだなんて、少し譲歩し過ぎているのだろうか。ふたりで黙っているよりは、紅夜はそのほうが良かった。沈黙が怖いのとは違う気がするが、京義とはこれで何だかんだと上手くいっているような気もしている。ただ意味の無い言葉を繋げて、それにひとりで勝手に満足していた。満足していたのに、不意に少し前を歩く京義が足を止めて、くるりと振り返った。紅夜は階段を3段残してぴょんと飛び降り、ようやくその視界に紛れ込んだ。
「・・・ん?」
「・・・いや」
確かめるように紅夜が促すと、京義はそれに眉を潜めて顔を反らす。京義にしてみれば若干不自然な動作に、紅夜は思わず首を傾げる。京義は態々殆どひとりで喋っている状態の紅夜のことを、振り返ったりしないのが常だった。そうして確実に喋りかけられているはずなのに、自分とは全く関係ないと思っている時も紅夜がそれを察知出来ないだけでしばしばあった。
「え、何やねん、何か言おうとしたやろ、今」
「・・・その割には、お前嬉しそうな顔してるなと思って」
「・・・え?」
低い声で京義が細く呟くそれに、紅夜は言われるまま手で頬を覆ってみた。そんなことでは筋肉の動きなど読み取れないが、もしかしたら無意識のうちに頬のひとつでも緩ませていたかもしれない。言いたい用が済んだのか、それに対する紅夜の返答などどうでも言いと思っているらしい京義は、またすたすたと歩き出す。その歩調は自らのことしか省みない京義そのもののようで、いつも孤高だ。紅夜もそれに余り遅れないようについていく。全く眠っているときはこちらが引っ張ってやっているのに、それを京義が理解しているとも思えないが、少しは感謝の念ぐらい示したらどうなのだとその時紅夜は妙に不服な気分になる。しかしそのリーチの長さに置いていかれそうになるたびに、無理矢理歩調を合わせる作業が続く。
「あー・・・そうかもしれへんなぁ」
「やって、学校に誰か俺のために誰か、来てくれることなんて、今まで無かってんもん」
「やからさ、まぁ、ちょっと、浮かれてるかもしれへんなぁ」
流石に言いながら紅夜も何か思うところがあったのか、照れ隠しにはははとわざとらしく声を上げて笑うのを、京義は自棄に冷ややかな無表情で眺めていた。ややあって紅夜はそれを止めて伺いを立てるような表情に戻し、京義の無表情が少しでも崩れるのを待っていた。しかし暫く京義はその表情を崩さないままで、とはいっても京義の場合、往々にしてその顔に表情が浮き出ていることはないのだが、兎も角何とか反応をしてくれないものかと、紅夜まで黙っていると下校時刻の過ぎた学校内は随分と静かだった。その静けさが単純に肌を突く。いつの間にか追いついていたのが不思議だった。
「そうだな」
だから京義が思い出したようにそう呟いたのが、静かな廊下に自棄に大きな響きを持って伝わった。それに弾かれたように、紅夜は思わずそのままの格好で固まる。少し前に立っている京義の注意はこちらにはなく、その時その不思議に赤い目はどこか遠くのほうを見ているように見えた。それは肯定だろうか、それとも他の何かだろうか、紅夜は考えるが分からない。理解しようと目を開く、見える景色で京義はいつもの無表情を崩さない。京義は紅夜が固まっているのを全く無視して、さくさく先を歩いていく。紅夜は慌ててその後を追いかけて、京義の後ろを一定の間隔を取りながら歩きはじめる。
「俺も無かったから」
「・・・」
「だから少し、嬉しかった」
「・・・―――」
目を伏せる京義の睫毛が、細く長く静かに揺れている。いつもの京義はこんなことは言わない。きっと言わない。紅夜の知っている断片を集めて出来ている京義は、こんな風に心内を分かり易い言葉になんかしないのだ。だから今日の京義は少しおかしい、決まっているのだ。そういえば夏衣もおかしかった。今日は一体どうしたというのだろう、皆。だけどそれが何か悪い風には思えなかったし、偽者臭い気はしたが、京義の唇を割って出たそれが、嘘だとはとても思えなかった。ただ閑寂に呟かれたそれに、紅夜は何と思って良いのか分からなかった。ただじわりと心臓部分が温かくなって、気を抜いたら泣いてしまうのではないかと思った。泣くのは自分の役目ではないことも知っているけれど、何だかその時無性に。
「・・・何だよ」
「や・・・きっとナツさん聞いたら感動すんで」
「・・・しねぇよ」
「いや、するわ。俺ちょっと泣きそうやもん」
「何でだよ、馬鹿じゃねぇの」
くるりと無情に何かを振り切るように、訝しそうに眉を顰めた京義はこちらに背を向けて、歩き出してしまった。照れ隠しなのだろうか、ほんの少し歩調がずれて京義の歩くスピードが速まったような気がした。紅夜はその背中を追いかける。いつものように追いかける。追いつけなくても構わなかった。
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